詩篇 121:1ー8
礼拝メッセージ 2018.8.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「私の助けはどこから来るのか」
目を上げて見る「山」とは?
最初の「山」(丘)は、これは原文では複数形になっていて、厳密に言うと「山々」です。実は、この見上げる「山」には、二通りの見方があります。一方では、この「山々」とは、神殿が立っているシオンの山々のことを指していると言います。そうすると、巡礼の旅が終わりに近づき、神殿の立つ山を見上げて、真の神に思いを向けて、詩人はそのご臨在に触れて「私の助けは主から来る」と目の前にある困難を乗り越える力を受けていることになります。
しかし反対に、この「山」とは、危険な障害物の象徴であると言う人もいます。古代、山や丘には、異教の神々を祀る祭壇が築かれたりしていましたから、詩人はそれら苦難をもたらす山々の巨大さに、身も心も圧倒されるような気持ちで不安になっていたことになります。どちらの解釈が正しいのかは、意見がわかれています。しかしどちらの理解に立ったとしても、この詩篇が示す最も大切なメッセージを受け取ることに大きな影響を与えないと思います。なぜなら、答えが2節以降に明言されているからです。「私の助けは主から来る」のです。
助けを必要とする私たち
「私の助けはどこから来るのか」の問いかけは、私たちすべてがその答えを捜していることをよく表していると思います。もし121篇がこの1節だけであとの部分が失われていたとしたら、現代の人たちであれば、その続きをこう付け足すのではないでしょうか。「私の助けはどこから来るのか?」に対して、「残念だが、どこからも来ないし、何も来ない」「あなたは孤独のうちに捨てられているのだ」。
あるアンケートによると、非常に強いストレスを抱え、悩んで生きている人の割合は全体で86%にものぼると聞いたことがあります。その数字の確かさは別としても、多くの人たちが助けを必要としていることはおそらく間違いがないでしょう。この詩篇が明らかにしているように、いつ遭遇するかもしれない危険や災い、そして未来という未知なる世界への不安や恐れを誰しも持って歩んでいるのです。
太宰治の短編作品「桜桃」の冒頭に、この言葉が記されています。その小説は、劇的なことは何もない普通の話です。幼い子どもたち(そのうち一人は障碍を持っている)を持つ夫婦のやりとりがおもな内容です。家庭の厳しい現実を知りながらも夫はそこから目をそらしているのです。冒頭に引用された詩篇121篇1節が、平凡な生活の中にも存在している苦しみから、何とか救い出して欲しいと願う著者の魂の叫びを反映するようになっています。しかし、そういう恐れに取り囲まれ、「私の助けはどこから来るのか」とつぶやく時があったとしても、最終的に「私の助けは主から来る」と信仰のことばで応答できる人生は幸いです。
2,「私の助けは主から来る」
主は、天地を造られた方です(2節)
2節「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」の信仰の表明は力強く感じます。現代人と感覚は異なっているでしょうが、この詩篇には、被造物である自然がいくつか出て来ます。「山」、「天」(大空)、「地」(大地)、「日」(太陽)、「月」と言うようにです。見渡す限り、目に入るすべてのものをお造りになった偉大なお方として、神を見上げています。私たちが助けを求め、それに対してしっかりと応えることができる方は、主です。特に、ここで一番強調されていることは、このお方は、私たちを「守ってくれる」ということです。全部で8節しかない中に、「守る」という同じ言葉が6回も出て来ます。そして、どんなふうに「守る」のかということで、次のような比喩が使われて表現されます。一つは「見張り人」のイメージで、もう一つは「陰」です。
主は、警護してくださる方です(3〜4節)
1番目は、警戒する見張り人です。重要な人物を警護するSPやガードマンのように、主は私たちを絶えず見つめ、守ってくださいます。特に、そのことを表すのに、「まどろむことがない」と2回書き、「眠ることもない」と1度表現しています。ある人が非常に個人的な危険に取り囲まれていたときに、どのようにしてうまく眠ることができるのかを、ギリシアのアレキサンダー大王に尋ねました。彼はこう答えました。私には忠実な見張り役のパルメニオが常に見守っていたので、安心して眠れますと。
19世紀、スコットランド人宣教師で探検家であったデビッド・リビングストンは、アフリカへ出発する時、家族とともに集まり、詩篇121篇を読んで祈り、未知の冒険に旅立ちました。彼の義母モファット夫人は、別れの手紙の中で、彼のために祈る時に詩篇121篇をいつも持って祈っていることを書きました。夫人は「主が彼をご自身の瞳の如く守ってください」「彼をあなたの手のひらの中で守ってください」と絶えず祈りに励みました。彼女の祈りと懇願は主に聞かれ、リビングストンは、多くの任務を全うし、直面する困難を乗り越えました。要求度の高い数々の宣教の働きを、彼は成し遂げたのです。
主は、右手をおおう陰です(5〜6節)
2番目は「右手をおおう陰」です。実は、今年の猛暑の夏ほど、この詩篇を思い出した年はありませんでした。特に、「昼も、日があなたを打つことはなく」というところです。何千年も前の文章ですから、今日の熱中症被害について直接言っている訳ではないと思いますが、本当に太陽に打たれるような経験を実感しました。そんなときに少しでもありがたいのは、日陰です。「右手」はその人全体を表しています。古代は、太陽だけではなく、月の光にも、人間を狂わせる力があると理解されていたようです。昼の目に見える危険と、夜の不意に訪れる隠れた危険の両方から、主は守られるということです。
私たちを襲う災いや病気、様々な不幸な出来事などから、主は私たちを守ってくださるということばです。3節は、祈りの願望形というかたちにもなっていますから、私たち皆がそのように主に祈り、願うということでもあります。7〜8節では、「たましい」の守りが言われ、さらに、「今よりとこしえまで」と、永久の主の守りが語られています。主に信頼しましょう。