創世記 12:10-20
礼拝メッセージ 2018.9.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,危機の中で、とう生きるのか
アブラムは危機的状況に置かれました
アブラムは、主なる神からの召命を受け、祝福の約束を受け取り、示される土地に向かって一族で移動しましたところが、その地に、厳しい飢饉が起こりました。 飢饉とは、食べる物が何もなくなってしまうことです。天候の問題や自然災害などで、古代世界は度々、飢饉に見舞われました。今日で言えば、災害でライフラインや交通網がストップしてしまう状態が長く続いて、生活 が困難になるようなことです。しかもアブラムは自分一人のこと にだけではなく、大家族の長として、使用人たち、そして多くの 家畜を抱えていました。養い手としての責任が彼の上に重くのし かかっていました。神からの祝福と繁栄の約束を受け取ったはず であるのに、この事態はいったい何を意味するのだろうかと、ア ブラムも悩み考えたことでしょう。約束の子孫が与えられるどこ ろか、このままでは飢え渇いて、人も家畜も死に絶えてしまうと いう不安が彼を襲いました
アブラムは自分の考えで、危機を乗り越えようとしました
追い詰められたアブラムは、信仰によって歩むということをどこかに置いて、あるいは、自分なりに解釈して、食糧が豊富にあると聞くエジプトの地へ避難する道む選びました。カナンの地に留まり続けて餓死するのをただ待つよりか、何とか生き延びるた めにエジプトに行くことを決めたのです。
そこでアブラムの心配は、妻サライのことでした。彼女の美し さがエジプト人たちの目に留まって、王の妃や側室として、取り 上げられてしまうかもしれないという不安です。そうなれば、た いていの場合、邪魔者となる夫(自分)は殺されてしまいます。アブラムは、悩み苦しみつつ、知恵を絞って何とかこれを切り抜ける良い方法はないかと考えました。そして妙案を思いつきまし た。 それは、妻サライが自分の「妻」であることを伏せておき、 ただ「妹」であると彼女に言わせることです。これは全くの嘘で はなかったのですが、半分だけ本当という、巧妙な偽りであり、 欺きでした。アイデアとしては、非常にうまい方法に見えました。サライを妹とすることでアブラムは殺されないばかりか、サライを召し出すファラオからはたくさんの贈り物がもらえます。エジ プトの地で大きな権力の傘の下でアブラムー行は、安心して行き来できるようになります。しかし、もしそうなると、妻サライの貞潔を汚すことになり、彼女を一生失うことになってしまいます。サライはアブラムやその財産のために全くの犠牲者となってし まうのです。実は、20章にもまったく同じような状況で、彼は 同じ過ちを繰り返すことになります。
危機的状況は、その人の生き方や考え方を明らかにします
この箇所が示している一つのことは、危機的な出来事は、その人自身の生き方や考え方を露わにするということです。ドナルド・バーンハウス牧師は、この箇所について次のようなコメントを記しています。「これはコインの表と裏のようなもので、人生 におけるあらゆる出来事は、私たちを神に引き寄せることもできるし、神から引き離すこともできるのです」(BoiceCommentary)。しかし、アブラムの決断や行動が、自分を神から引き離すような愚策であったにもかかわらず、神は彼に対して、叱責の御声をかけることも、あるいは災いをもって彼と彼の家を罰することもなさいませんでした。しかし同時に、聖書は彼の行動を肯定しているようにも見えません。むしろ、神がこの愚かな行動を取ったアブラムたちを、どのように救ったのかを明らかにしています。
2,危機の中でも、神は確かに働いておられる
神は、試練の中においても、アブラムを守り、満たされました
1 7節「主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた」とあります。18節と19節でファラオがアブラムに告げた訴えは、「何ということをしたのか」「なぜ私に告げなかったのか」「なぜ…言ったのか」と「なぜ」の語が繰り返され、それによって大国の王ファラオが、小さな放浪者の一団にすぎないアブラムに対して、何か弱い被害者的立場 に置かれているように見え、立場の逆転が暗示されています。
このファラオの非難の言葉に、アブラムは何の反論もしていま せん。もしかすると20章のように何かを語ったのかも知れませ んが、私は、このアブラムの沈黙の中に、この出来事を通して彼 のうちに生じた信仰的な驚きが示されているように思います。す なわち、主が彼の上にしてくださった恵み深いお取り計らいに対 する驚きです。また、16節と20節を見れば、アブラムの所有財産は、この出来事の中で明らかに増えました。大きな得をした のです。
ここで、12章の最初で、主がアブラムに約束された祝福の言葉が、確かに少しずつ動き出していることに気づきます。アブラムの信仰の無理解や、この世的な決断や行動であったにもかかわ らず、主なる神はご自身が約束されたことを間違いなく忠実にそ の通りに果たしていかれるのです。アブラムがその主の恵みのわ ざにどれくらい気づいていたのかはわかりませんが、主は常にア ブラムに対して、真実なお方であられたのです。
アブラムの信仰の旅路を見ていくと、神から呼びかけを受け、それに応じて生きていくこと、つまり信仰とは、いったいどのようなものであるのかがわかってきます。それは、信じるだけ寸悩みや危機から完全に逃れるというような安全装置でもなく、また 単に道徳的な教えに従う生き方ガイドでもありません。信仰とは、自分の人生の中でゆっくりに見えても着実に働きをなさってお られる神を認めて、その祝福の約束とご計画とに全面的に信頼し て、歩き続けることです。信仰者は、 日々の歩みにおけるいろいろな出来事、特に試練の中で奮闘するうちに、主がどのようなお方であるのかを新たに発見し、今まで見えていなかった神・自分•世界についての目が開かれ、新しく造り変えられていくということを個人として、また教会として経験を深めていくのです。
神は、これからのご計画をアブラムに暗示されました
アブラムの直面したこの出来事は、これから神がなそうとされている壮大なご計画を暗示していました。それは出エジプトです。振り返ってみると、アブラム一家の飢饉によるエジプト下り、そしてサライが取られ、災いを通して、サライがエジプトから解放 され、その贈り物を受けて、脱出しています。時代も規模も異な っていますが、ストーリーの枠組みは同じです(参照;15章12~16節)。