「外国人女性への助け」

マルコ福音書 7:24-30

礼拝メッセージ 2018.9.30 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


女性との出会い

 イエスは異国ツロに休暇のために来たようですが、この旅も休息にはなりませんでした。一人の女性がイエスのもとに来ました。彼女の娘は穢れた霊に憑かれており,その娘を救って欲しいと彼女は懇願します。この女性は、ギリシヤ人でツロ・フェニキヤの生まれとされています。ガリラヤでユダヤ教の文化・社会に生活していたイエスから見れば,外国の女性です。それはまた,この女性がユダヤ教以外の宗教(神々)を信じていたことを意味し,彼女が特にユダヤ教に改宗しているコメントもないので,ギリシヤの神々か別の神々を礼拝していたと考えるのが自然ですしかしそのような文化や宗教の壁を超えて,癒す力を持つイエスに娘の運命を預けようとします。


イエスの反応と女性の応答

 ここでのイエスの反応は,私たち読者の期待とは反します。求めている者を突き放すイエスの態度はめずらしいと言えます。ここでイエスの語りの意味として,休息を邪魔しないで欲しい,という理解があります。あるいは,マタイ福音書に従い,外国人に福音を語って業をなす時はまだ来ていないと理解する立場もあります。いずれにせよ,この女性がイエスに救いの手を伸べるタイミングが悪いことになります。この外国人女性は,イエスの冷淡とも思える言葉を逆手にとって娘の救いのために懸命に語りかけます。残り物でよいから,今は娘の救いの時ではないかもしれないが,救いのかけらでもよこして欲しい、そのような願いです。イエスはこの女性の機知を認めて,自らの意思に反してその救いの業を行います。


イエスの変化

 なぜイエスがこの外国人女性の願いを冷淡な態度で断ったのでしょうか?イエスは愛であり,人々の困窮に応えようとしてきました。多くの場合,イエスは関わりを求めてきた人々とから言葉によってその願いを確認し,人格的な交わりを欠かそうとはしませんでした。それに反して,この女性の事情や状況,あるいは願いの内容をいっさい問うこともせずに,逆にイエスの方から関わりを断つ言葉を投げかけています。多くの人はこの女性のイエスに対する信頼を試す意図がイエスにはあったと考えます。どれだけ真剣に救いを求めているのか,イエスに求める言葉に嘘はないか,それをイエスは確かめたかった,そんな理解です。別の解釈としては,イエスは本当に休みたくて女性を文字通り追い払おうとした,あるいは外国人女性ということで自分の宣教の範囲外と考えていた,などが挙げられます。いずれにせよ,イエスがこの女性との交わりの仲で,彼女を尊敬する態度へと変わっていきます。この時点では,(誤解を恐れずに言えば)イエスは癒す人ではなく,学ぶ人になっていました。


人間の壁を超えるイエスの言葉

 イエスは宣教において,イスラエルから出ることはほぼありませんでした。しかしイエスの福音の言葉やイエスの救いの業は,国や性差,あるいは当時の社会的身分を超えていきます。必要のある人が具体的な必要を分かち合う,そのために社会的な枠組みは越えられなくてはなりませんでした。そうでなければ,誰も救われはしないのです。ここでの救いの成就はイエスとこの女性との,冷淡さと機知に富んだ人格的な出会いに求められます。この出会いは,すでに私たちの国も男女差も,身分も文化も(宗教も)超えています。真の救いには,そのようなことが起こるのです。
 では何でもありでしょうか?逆にイエスは,そのような社会的・宗教的な枠組みに人々を押し込めて,自分たちだけが正しいと自認する人々への徹底的な抗議を行い続けました。人々の間にある見えない壁を壊すことは簡単ではありません。また、壁を壊し違った人々が尊敬しあって交わりを持つようになったときから,別の壁が人々を取り巻き始めることもあります。これまでその壁は男女,国籍,言語などでしたが,今度は信仰だとか救いという名の壁になってしまう危険もあります。時に人を隔てた壁がもたらす苦しみの被害者になり,時には人を苦しめる加害者にもなります。私たちの教会生活,日々の家庭や職場での生活,そこでは新しい人々との関係が絶えずあり,新しい出来事も起こきます。そのときに,聖書に登場するパリサイ派や律法学者のように神の名で自らの思いや習慣を守るだけに留まるのか,あるいはイエスが異質な人の出会いから学んだように,私たちも人との出会いから学ぶのか,そんな選択に迫られます。新しい出会いから学び謙虚になることの中で,私たちは互いの必要を満たす、そのような神がもたらす救いを経験し,神が命じる事柄を実行することができるのです。