創世記 14:8-20
礼拝メッセージ 2018.10.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,祝福を信じて歩む信仰は、戦いの現実を受けとめさせて、行動に導くものです(8~16節)
困難な聖書箇所?
14章は、聖書学者たちを困惑させてきた箇所のようです。アブラハムなどの族長物語の中で、これほど、固有の地名や人名が並んでいる箇所は他になく、しかも、小規模であっても、戦争の 様子が描かれているからです。しかし、この14章を通して、神から祝福を受けて歩む信仰が、絵空事ではなく、生身の人間がそ の時代固有の厳しい現実世界の中で、いかに生きることができる のかということを、一人の人物の歩みを通して聖書は指し示しているのです。
アブラムの生きた世界の現実
古代世界がどんなものであったのか、考古学的な研究によっていくらかは解明されているとは言え、詳細なことはわかりません。ここの記録によれば、アブラムが生きていた時代状況は、日本の 戦国時代のように、それぞれの地域に領主である王がいたようで、その中にも勢力の強い者もおれば、弱い領主もいたようです。特に、エラムの王であるケドルラオメルが大きな力をもって、他の 地域の王たちを従えていました。ところが、その支配下を脱しよ うと、五人の諸王たちが連合して戦いに挑みましたそれに対してケドルラオメルのほうも負けじと他の三人の王と連合して、戦いました結局、反旗を翻したほうの五人の諸王は敗れてしまい、その戦争の中で、ケドルラオメルらは、戦利品として、負けたソドムの王の領地にあるすべてのものを略奪しました。
この戦争に巻き込まれたのが、ロトとその家族でした。見るか らに肥沃で良い土地としてアブラムと別れて、ソドムの地域を選び、幸せに満ち足りた暮らしに入るはずだったロトに、思いもよ らない危険と災難が降りかかりました。彼は財産のすべてを奪われただけではなく、自分自身が戦争捕虜として連れて行かれ、命 の危険に遭遇しました。身内に起こったこれらのことを聞いたア ブラムは、ロトたちを見殺しにはせず、すぐに戦いの準備にとりかかり、三百人余りの軍勢を率いて出発し、ケドルラオメルの軍を約240キロもうしろから猛追しました。やがてアブラムの軍は追いついて戦いをし、見事に勝利を収めて、ロトとその家の者 たちを無事に救出させ、その財産すべてを奪い返したのでした。 アブラムの生きていた時代や地域は、今のような安定した政府や社会のない、無法状態で、弱肉強食の世界であり、力のある者だけが生き残れるような厳しい時代でした。そういう時代背景の中、アブラムが受けた、主なる神からの召命と祝福の約束は、彼の気持ちを一時的に安んじるような性質のものではなく、もちろん、空想の世界に現実逃避させるものでもありませんでした。主なる 神からの約束があったからこそ、アブラムは信仰をもって、ありとあらゆる困難な状況に対して戦うことができたのです。
アブラムは戦いに備え、勇気を持ってロトを救出しました
14節「アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞 き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。」のとおり、アブラムは、ロトたちを救うために、すぐに行動に移りました。アブラムが言仰をもって行動する人物として、ここでその姿を明らかにしています。祝福を信じる信仰の歩みは、安楽椅子に座って天から降りてくるものをただ待って、何もしないのではなく、主に信頼して祈り、よく考えて、決断して行動するものです。 その上、この節にあるように、 「彼 の家で生まれて訓練された者三百十八人」という記述からわかることは、日頃から、危機や困難に備えて、準備することを彼が怠らなかった様子もうかがえます。ロトを救出できたのは、常日頃からの訓練と準備によるものでした祝福を信じて歩むというこ との実際が示されているように思います。主の助けを信じて、日々訓練する、常に準備する、ということは、とても正しいこと なのです。実際的な問題に対して、主に祈りつつも、何か方法は ないかと探して考え、決断して、行動することは、神に逆らうこ とでも、不信仰なことでもありません。
2,祝福を信じて歩む中で、神は勝利と信仰の励ましを与えてくださいます (17~20節)
謎の人物ーメルキゼデク
この出来事は、謎の人物にアブラムが遭遇したことを記してい ます。 その人物とは、メルキゼデクという人です。 旧約聖書中、 彼のことが記されているのは、詩篇110:4だけです。「主は誓われた。思い直されることはない。『あなたは メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。』」。そして、新約壁書のヘブル人への手紙5~7章にこの人物についての説明がなされています。「このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝 福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず『義の王』、次に『サレムの王』、すなわち 『平和の王』です。 父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とさ れて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」(ヘブル7:1~3)。 このヘブル人への手紙の記述から考えられること は、メルキゼデクは、未来のキリストを指し示すために存在した人物、つまりキリストの予型であるのか、あるいは、受肉前のキ リストご自身の現れなのかもしれません。
メルキゼデクとの出会い
いずれにしても、メルキゼデクがアブラムを上からの権威をもって祝福し、十分の一を受け取ることができるという、義と平和の偉大な王であり、同時に祭司の役割を担っていたことがわかります。そのような人物との出会いを備えられたのは、「いと高き神」であり、「天と地を造られた方」にほかなりません。祝福を信じて歩むアブラムに、神は彼の信仰を励まし、成長させるところの良き出会いを与えられたのです。しかも、アブラムは、その 素晴らしいめぐり逢いに対して、十分の一のささげ物をもって応え、祝福を受けることができたのです。反対に、ソドムの王からの歓迎やお礼に対しては、きっぱりと拒みました。「アブラムを富ませたのは、この私だ」と彼にふれ回らせたくはなかったのです。当然のこと、アブラムがこの勝利で示したかったことは、「アブラムを富ませた」のは、ほかのだれでもなく、実に、主なる神であるということでした。彼は何としても人々に証しをし、主の 栄光を表すことを願ったのです。