創世記 15:1ー16
礼拝メッセージ 2018.10.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神は、私を守ってくださるのだろうか?(1節)
信仰義認と契約
アブラハムの物語の中で、非常に重要とされる箇所がこの15章です。なぜなら、旧約聖書で、明白に信仰が義と認められるという表現が含まれており、同時に、7節以降で、主がアブラムと契約を結ばれたという、やはり信仰にとって重要なことが述べられているからです。「信仰義認」と「神の契約」という神学の二大テーマが合わせて登場しているのです。15章は、神とアブラムの会話になっています。ここを調べていくうちに、特に、アブラムが神に対して投げかけた問いの言葉の一つ一つが、私の心の奥深いところで響き、魂が揺さぶられるような感覚を持ちました。おそらく、今日の箇所は、信仰を持っている人も、信じておられない人も、誰でも一度は心に抱くような宗教的な問いではないかと思いました。アブラムの神への言葉は、詳しく言えば、聖書本文には三つあるのですが、内容的なつながりで言えば、次の二つです。一つ目は、2節に「神、主よ、あなたは私に何をくださるのですか」です。それから、もう一つは、8節「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」という問いです。
「恐れるな!」
これらの質問に入る前に、質問のかたちは取っていないのですが、アブラムの心をすべてご存知である神が、言葉にならない彼の思いを汲み取って語りかけられた1節の言葉を最初に見たいと思います。神は「恐れるな」と言われています。彼は恐れを抱いていたのです。1節「アブラムよ、恐れるな。」という表現から、ロトの救出劇の出来事の後、その時の興奮がおさまった後、恐れに取りつかれたのかもしれません。そういう意味では、神は危険な中で私を守ってくれるのだろうか?という問いを、彼は心の中で、真剣に神に投げかけていたでしょう。「恐れるな」や「恐れてはならない」という言葉は、ある人の計算によれば、聖書に約80回出て来るそうです。こんなに多く、神が人に「恐れるな」と言われるのは、人間が恐れの感情を持ちやすい者であることを表していると思います。アブラムは、26章24節でも主から同じ語りかけを受けています。神は、恐れるなという言葉の続きで、「わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい」と言われます。この「盾」という表現は、モーセの遺言的な説教でイスラエルに語った言葉にも出てきます。「主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣」(申命記33:29)。「盾」があれば、敵が剣で打ちかかって来ても、矢を放たれても、それをはねのけ、無傷でいることができます。神はご自身のことを比喩的に表現されることがありますが、この「盾」という表現ほど、私たちを恐れから解放してくれるものはありません。
2,神は、私の必要に応えてくださるのだろうか?(2〜7節)
跡継ぎ問題
恐れからの解放とともに、アブラムが必要としていたことは、相続者となる自分の子孫が与えられることです。この時代、一族の長として、最も大切なことは後継者のことでした。この切実な課題に対して、神はどう答えてくれるのか、アブラムの苦悶はそこにありました。私たちも同じような疑問を神に持つことがあるでしょう。神は私が必要としているものを、本当に与えてくれるのだろうか?ということです。新改訳2017版で、2節に加わった表現があります。「私は子がないままで死のうとしています」というところです。以前の訳では「私には子がありません」だけでした。「死のうとしています」は直訳すると「行く」とか「歩く」という単語ですが、有名なヘブライ語辞書(ケラー&バウムガルトナー)によると、ここは「死ぬ」ということの比喩的表現として使われているとありました。そのように訳すことで、アブラムの絶望感がよく表現されています。
神のやり方で、神のスケールで
ここで主なる神がこのアブラムの心情の吐露に対して、おもに二つのことを語って応じています。一つは、神の祝福の約束は、あるいは神からの祈りの答えは、神のやり方で果たされるということです。アブラムに対して、「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない」と語られ、彼の想像していたあり方で、相続人が与えられるということではなかったのです。
もう一つは、神の祝福は、人が心に思い描くような小さなものではなく、もっと大きく、広く、長く、深いものであることを示されました。神は、天を見上げよ、星の数を数えよ、と満天の星空をアブラムに見せて、改めてその約束を誓われたのです。神は必要なものを本当に与えてくれるのだろうか?という質問に対して、神のやり方で、そして神のスケールで、神は良きものを、あなたに対する最善を与えてくださるのです。
3,神は、約束されたことを実現されるのだろうか?(8〜21節)
疑いとの戦い
三つ目のことは、神は約束されたことを本当に実現してくれるのだろうか?という問いです。8節「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか」。二つ目のことは、子孫、相続人のことでしたが、この三番目のことは、土地の約束についてのものです。「何によって分かるでしょうか」のアブラムの疑問は、確証が欲しいとの願いを示しています。これは疑いとの戦い、葛藤がアブラムのうちにあったことを表しています。
約束の確証
主からの答えは、目に見えるかたちで契約を表すということです。牛、やぎ、羊を二つに裂いて犠牲とし、切り裂かれたその間を「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」が通り過ぎるという不思議を行われました。これは、契約の儀式を表しており、二つに裂かれた犠牲の間を通るのは、もし約束を守らなければ、これら動物のように切り裂かれても構わないという契約の絶対性を意味していると言われています。神だけがその間を通り抜けられたのです。一方的な神の恵みであることが示されています。今日の私たちからすれば、その確証は神の御子イエスの歴史的な十字架の御業こそ、目に見えるかたちでの確証と言えるでしょう。