創世記 16:7ー14
礼拝メッセージ 2018.10.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,予期せぬトラブル(1〜6節)
愚かさを持つ人間というもの
16章はアブラムとサライとハガルという三人の人物が出てきますが、良く言えばとても人間らしい話ですが、信仰の視点で見ると、三人が三人ともその弱さや愚かさを露わにしているのが目につきます。サライの愚かさは、ハガルを妾として与えたり、身ごもったハガルの態度の変化に我慢ならなくなって夫に詰め寄り、さらにハガルをいじめていることに現れています。アブラムの愚かさも、妻の言われるままハガルのことを受け入れたり、妻と妾との衝突に、好きなようにせよと言って、その問題から逃げていることの中に見られます。ハガルも懐妊した後、正妻になったかのように振る舞ったのかもしれません。また、どんな苦しみであったのかはわかりませんが、忍耐できず、すぐに逃亡してしまいます。
しかし、このアブラハムの物語は、人間の愚かさを示して終わりではなく、このように忍耐できず、あきらめたり、失敗したりしている彼らであっても、神は決して見捨てることをせず、大きな恵みをもって顧みられたことが記されているのです。
ラインの外側にいる人にも
特に、この中で一番弱い立場にあったハガルに対して、神は、彼女と生まれて来る子どものことを、深い愛をもって見つめておられたことがはっきりと示されています。この後、明らかになりますが、ハガルも、その子イシュマエルも、アブラムに約束された祝福のラインには含まれていません。けれども、神は祝福を受け継ぐ中に入っていない人たちであっても、彼らを見捨てないばかりか、むしろまったく別け隔てなく、すべての人々に対してその愛と恵みを注がれるお方であることを明らかにしています。
2,予期せぬ出会い(7〜9節)
主の使いが現れる
7節に「荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとり」と書いています。ハガルはエジプト人でしたから、もしかするとエジプトへ帰ろうとしていたのでしょうか。それはわかりません。しかし荒野の厳しい道のりです。あるいは、「どこへ行くのか」という主の使いの問いに対して答えていませんから、行くあてもなく彷徨っていたのかもしれません。11節には「主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから」とあるので、どうしようもないほどの苦しみの状態だったでしょうし、胎児の心配もあったことでしょう。しかし、そこへ予期せぬ出会いが待っていました。主の使いが突然現れたのです。この「主の使い」についてですが、この後も時々現れますが、どの箇所でも主ご自身かそれと同等のお方であるように描かれています。G・フォン・ラート(旧約学者)もこの主の使いは、イエス・キリストの予型であり、影であると書いています。予期できなかったトラブルに巻き込まれたハガルでしたが、予期せぬ出来事は、苦しみばかりではなく、神との素晴らしい出会いも与えられたのでした。
あなたはどこから来て、どこへ行くのか?
ここで主の使いはたいへん意味深い質問をハガルに投げかけました。「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」(8節)です。かつてアダムに対して「あなたはどこにいるのか」(3:9)と問われ、後に預言者エリヤに向かって「ここで何をしているのか」(Ⅰ列王19:9)と言われたことに似ています。画家のゴーギャンが絶望状態で描いたとされる大作のタイトルの言葉「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を思わせます。この言葉は、その人の置かれた状況を想起させるだけでなく、その人の存在そのものを問いかけるような響きを持っています。キリストがサマリアの井戸のかたわらで一人の女性に「わたしに水を飲ませてください」と言い、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハネ4:16)と語りかけられたことにも通じるところがあります。ハガルは、自分の今のありのままを伝えます。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」(8節)。神は、その人のすべてをご存知ですが、あえてその心に問いかけることによって、絶望状況にいるその人自身が自分が何者であり、今はどうであるのか、どこへ向かって行こうとしているのかを考えさせ、我に返るように促されます。
二番目に主の使いが語られたことは、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言われました。ハガルが置かれた現実の状況から逃げないようにとの命令です。この「身を低くしなさい」という文章は、直訳すると「彼女の手の下で、苦しめられなさい」となっています。非常に過酷な命令です。苦しめられていたから逃げ出したのに、戻って、また苦しめられなさい、と言うのは残酷すぎるような気がします。しかし場合によるとは思いますが、これも確かに神の真理であると思います。自分の経験でも、嫌なことや苦しいことは避けたり、逃げたりしてしまうことがありますが、結局、あとになって逃げ続けることはできないことに気づきます。人生の課題となることは、逃げても逃げても猟犬が追いかけて来るように、自分のあとを追って来ます。そして結局はいつか、それと対峙し、忍耐したり、戦ったりしなくてはならない時が必ず来るものです。
3,予期せぬ幸い(10〜16節)
しかし、神は帰りなさい、と言われただけではなかったのです。「わたしはあなたの子孫を増し加える」という思いがけない幸いを約束されたのです。主はアブラムに約束されたことと同じように、「それは数えきれないほど多くなる」とも言われました。子孫の繁栄が何よりも重要だった時代に、ハガルは素晴らしい御言葉を受けることができたのです。自分の耳を疑うほどの驚きが彼女にあったことでしょう。13節でこう告白しています。「あなたはエル・ロイ」「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」。「エル・ロイ」とは、「エル」は神、「ロイ」は見るで、神は見ておられる、あるいは、見ておられる神という意味です。「見る」と言うのは、顧みてくださるということです。しかも、生まれてくる子どもの名前を、「イシュマエル」と名づけるように言われました。「イシュマエル」とは、神は聞いてくださる、という意味です。ハガルの言葉「エル・ロイ」と合わせると、神は見てくださり、そして聞いてくださる方であることを表し、神の私たちに対する温かい御思いが示されています。