創世記 18:1ー15
礼拝メッセージ 2018.11.18 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,危機に直面して、恐れ、苛立つー「産み出す力がない」
列王記第二19章3節に「今日は、苦難と懲らしめと屈辱の日です。子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないからです。」と書いています。アブラハムたちは、跡継ぎの子どもが生まれず、失望の中にありました。列王記の言葉は、子どもが生まれるかどうかの問題を言っているのではなく、国がアッシリアに攻め滅ぼされるかどうかの危機的状況を表す比喩として語られたものです。主を侮る者たちによって国は侵略され、皆殺しにされるのをただ黙って待たなくてはならないのかという、腹立たしく、惨めで辛い思いを示しています。私たちも地上で生きている限り、いろいろな危機に直面します。そして八方塞がりのような状況の中で「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がない」という表現に似たジレンマに苦しむことがあるのではないでしょうか。
子孫が必要なのに生まれない、少子高齢化の進む日本社会の課題のようにも見えます。社会の発展を目指すにも、維持するにも、子どもが生まれないことにはどうしようもありません。教会においても、新しく主を信じて救われていく方々を産み出す力がない、という課題について祈っています。個人でも、社会でも、4000年前に生きたアブラハムの直面していた「それを産み出す力がない」という苛立ちと不安は同じように存在しています。
2,危機が信仰を呼び覚ますー「信仰によって」
アブラハムの信仰による生涯をたどると、彼には3つの危機がありました。1つは、「わたしが示す地へ行け」と召命を受けた時です。どこへ行くのか、どう導かれて行くのか彼自身もわからない不安、移動による危険やリスクを抱える中、とにかく前へ歩まなくてはなりませんでした。2つ目の危機は、この跡継ぎ問題です。約束の言葉を与えられても、歳月がいたずらに経過していくようで、ふたりとも歳を取っていくばかりで、何も起こりませんし、兆しも見えません。精神的に追い詰められるような危機状態でした。3つ目は、この先に見ていきますが、せっかく与えられたイサクをささげよ、という命令を受けた、人生最大の試練の時でした。しかし、こうした人生の危機を通して、アブラハムは神に対する信仰が成長し、深まっていったことが聖書を読むとわかります。「信仰の章」として知られるヘブル人への手紙11章には、この3つすべてが短く語られています。11章8節「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」、11節「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」、17節「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。」(下線は筆者)。この11章には、信仰に生きた人たちの名前がいくつも出てきますが、アブラハムほど繰り返し語られている人はほかにありません。ヘブル書記者は、特に、アブラハムから「信仰によって」生きることの本質を学ぶことができることをよく知っていたからでしょう。アブラハムが経験したように、人生の危機は、私たちのうちにある信仰の心を呼び覚ますことができるのです。
3,危機の中で信じられなくなるー「サラは笑った」
9節からは、妻サラの不信、神の約束への信頼が持てなかったことがクローズアップされています。サラは、神の存在を信じなかった訳でもなく、信仰を否定していた訳でもなかったと思います。それでも、信じ切れていなかったことは確かでしょう。信と不信との間、揺れ動く心の状態であったと思います。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています。」(10節)を聞いて、サラがそんなことがある訳がないと心の中で思って、思わず笑ってしまうのです。これは疑いの笑い、不信仰の笑いでした。実は、17章を読むと、アブラハムも疑って笑っていました(17:17)。信と不信との間にいる理由は、さまざまでしょう。信じている思いもあるが、疑いの気持ちのほうが強い場合もあるでしょう。また、信じてしまうことによって起こる影響を心配したり、自分の立場や家族など周りにいる人たちへの遠慮や配慮から躊躇されている場合もあるでしょう。また、信仰を持つことがある種の考えに凝り固まってしまい、偏狭な視野に閉じ込められるとの誤解もあるでしょう。しかし、それについては私は全く逆であると思っています。むしろ信仰の目を通して新しい視野が開けてくるし、世界が大きくなると思います。
主は、彼女の疑いの心から出た、冷ややかな笑いを、本物の喜びの笑いに変えられることになります。不信仰の笑いから、信じる者に与えられる感激の喜び、賛美があふれるような笑いに変えてくださるのです。だから、生まれる子どもの名前は「イサク」と決まっていました。「イサク」とは「笑う」(彼は笑う)という意味です(17:19)。
4,危機の中で主は現れてくださるーヴァイエラ
パウロの言葉を見ましょう。ローマ人への手紙4章です。「彼は死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫は、このようになる』と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。」(ローマ4:17〜18)。危機の時に信仰心は呼び覚まされると言いましたが、希望の見えない時にこそ、信仰が働くチャンスなのです。望み得ない時に望みを抱いて信じることが、アブラハムの話から学び取らなくてはならないことです。この望み得ない時に、アブラハムたちに対して、3人の旅人が来てくださったのです。18章1節で「主は…現れた」と書かれています。ユダヤ人は今日この箇所をこの「現れた」という冒頭のヘブライ語から、ヴァイエラと呼んでいます。
アブラハムを訪ねて来た3人の人たちは、1人が主ご自身で、あとの2人が御使いであるのか、三位一体の神を表しているのか、明らかではないものの、この人たちが神である主を表していることは、文脈から明らかです。望み得ない時に、望みを抱いて信じられるように、神は、ある種の匿名性をもって、姿を変えて、エマオの途上のイエスのように現れてくださるのです。主はご自身を隠しつつ(イザヤ45:15)現れてくださるのです。