詩篇 136:1ー9
礼拝メッセージ 2018.12.30 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
本日は一年を振り返るのに、相応しいと思われる聖書箇所を皆様とともに味わいたいと思います。それはこの詩篇136篇です。これは「大ハレル詩篇」と呼ばれる有名なもので、非常に特徴のある詩篇です。一読すればわかるように、一行目はいろいろな表現で語られていますが、二行目は「主の恵みはとこしえまで」という全く同じ文章がその後に続きます。ヘブル語聖書(ビブリア・ヘブライカ)では、「その恵みはとこしえまで。」(キー・レオラム・ハスドー)の部分の全節が、紙面の左端に寄せて揃えて書いているので、その詩篇であることが一目で分かります。旧約時代、礼拝を導く祭司が一行目の言葉を読み、続いて会衆がそれに応答するかたちで「主の恵みはとこしえまで」と唱えたと考えられています。
聖書を紐解くと、ソロモンの神殿が完成し、奉献の祈りが捧げられた時に、その栄光に圧倒された人々はこの詩篇の言葉をもって、主をたたえたことが記録されています。「ソロモンが祈り終えると、天から火が下って来て、全焼のささげ物と数々のいけにえを焼き尽くし、主の栄光がこの宮に満ちた。… イスラエルのすべての人々は、火が下り、主の栄光がこの宮の上に現れたのを見て、膝をかがめて顔を地面の敷石に付け、伏し拝んで、『主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と主をほめたたえた」(Ⅱ歴代7:1,3)。
1,天地創造の御業のゆえに、主はいつくしみ深い
主に感謝せよ
この詩篇はよく見ると、「感謝せよ」という言葉で始まっています。しかしこの言葉は全部の節にはなく、原文では、1,2,3節と最後の26節にだけ「感謝せよ」の句があります。この言葉が最初と締めくくりとに置かれているということは、感謝することがとても大切であることを表しています。言わばこの詩篇は、感謝の言葉に始まって、感謝の言葉で終わっています。それはこれを読む神の民としての生きる姿勢そのものをよく表しているのです。
「感謝せよ」という語は、神様をたたえるとか、ほめるという意味も合わせて持っています。それで、別の翻訳では、主をたたえよ、と訳しているものもあります。でも、人間が主に対して感謝するその言葉というものは、自然と主への賛美の言葉になっていきます。ですから、どちらにしても同じようなことであり、意味の上では明らかに繋がっています。神に向かって、心から感謝を、あるいは賛美を捧げることができているかを考えてみましょう。人間というものは、狭い視野に捕らわれやすく、わがままで頑ななところがありますから、自分にとって心地良いかどうか、少しでも不快に感じたり、思うように行かなかったりすると、感謝の言葉が大切であると思っていても、簡単にその思いは吹き飛んでしまい、気がつくと、口から出て来るのは、つぶやきや恨み事にすり替わっていることがあります。
天地創造の御業を覚えよ
詩篇記者は、人間のそういう一時的で偏狭な視野や感覚、気まぐれなところをよく知っていましたので、主に対する感謝とは、そうした薄っぺらいものを土台とすることのないようにこの詩篇で教えてくれているのです。では、どういうことに目を留めるべきなのか、それはまず、神がしてくださった天地創造の御業に思いを向けるように語っています。少しでも気温が低いと寒いとつぶやき、雨が降り続くと悪天候を嘆きますが、この天地(地球)がそもそも存在していること、太陽や月があるということ、こうした私たちが生きていくことのできる自然環境が与えられているということ、それ自体は当たり前のことではありません。それらを創造されたお方がおられるから、これらの環境が存在し、人間である私たち被造物もそれぞれに存在することができているのです。確かに、人生において激しい苦しみに襲われると、自分の存在も、この世界の存在さえも終わりにしたくなります。苦難の中にいたヨブは「私が生まれた日は滅び失せよ」(ヨブ3:3)と悲しみの声を上げました。しかし、それは良いことではありません。主は嵐の中でヨブに答えられ、ご自身の創造の御業をいくつも示されて、彼を立ち直らせていかれました。神の創造の御業がいかに素晴らしいものであるのか、また、このような大自然を造り、維持しておられることに、目を向ける時に、神の偉大さ、いつくしみ深さが感じられることでしょう。
2,救いの御業のゆえに、主はいつくしみ深い
救いの出来事を覚えよ
第二に、私たちがほんとうに主はいつくしみ深いと告白して感謝することのできる理由を、この詩篇は、主が私たちを救い出してくださったということにあることを教えています。10〜22節を読むと、出エジプトの出来事、そしてその後、荒野の旅を経て、約束の地へと民が入って行ったことが、短い言葉をもって要約されています。これらの救いの出来事についての表現は、私たちの力ではなく、いつくしみ深い主ご自身が、そのすべてを成し遂げてくださったということに強調点が置かれています。新約時代に属する私たちは、同じように、神の御子イエス・キリストによる贖いの御業を思い、主の素晴らしい恵みを覚えることが必要です。
「主の恵みはとこしえまで」
さらに、23〜26節を見れば、私たちを主はいつも御心に留めてご覧になり、日々守ってくださって、必要なものを与えてくださるお方であることも記されています。主は天地創造の主であり、救いの神であることに、私たちの感謝の根拠、賛美の理由があるのです。創造と救済という主がしてくださった出来事に、私たちの現在の歩みが直結しています。そして、まだ誰も見てはいない未来にそれが繋がっているのです。だから、この繰り返し語られるフレーズは、私たちの絶えざる主への信仰による応答の言葉となるのです。「主の恵みはとこしえまで」、私たちは未来を恐れずに確信して良いのです。主はいつくしみ深いお方であり、その恵みは永遠なのですから。この言葉をいつでも思い出せるように覚えておき、どこででも唱えましょう。この言葉はこの詩篇自体がそうであるように、いつまでも私たちの魂の奥底で繰り返し響き続けるのです。