創世記 21:1ー21
礼拝メッセージ 2019.1.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,世界に影響を与えている「二人の息子の物語」
今日の聖書箇所は、二人の息子をめぐる物語です。その息子とは、イサクとイシュマエルです。神に約束された子どもとして、正妻サラから生まれたイサクと、エジプトの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエル、しかしどちらもアブラハムの息子でした。この対照的な二人の息子たちのテーマは、非常に大きな意味を持っています。新約聖書においても、イエスが語られたたとえの中には、二人の息子が出て来るものがあり、それぞれの信仰や行動が対照的に描かれています(マタイ21:28〜32、ルカ15:11〜32)。イシュマエルは、後にアラブの人々のルーツになった人と言われ、イスラム教のムハンマドは自らをイシュマエルの子孫と位置づけています。この二人の息子のことが今までの歴史においては、ユダヤ人問題やイスラムの人々との関係に繋がっているとれば、二人の息子の物語は今も世界に大きな影響を与え続けていると言えます。
しかし、聖書において最も重要なことは、この創世記の箇所に直接言及している、パウロの言葉、ガラテヤ人への手紙4章21〜31節で論じられていることです。「アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。」(ガラテヤ4:22〜23)。そして続く28節では「兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです」と言明されています。自由と束縛、シナイ山と新しいエルサレムといった対比を示しつつ、信仰によって、キリストを通して、私たちは自由な神の子どもとされていることをパウロは述べています。
2,神の約束の成就に進んで応答する信仰(1〜7節)
アブラハムは信じ続けた
アブラハムとサラが25年間待ち続けた神の約束がついに成就し、約束の子イサクが誕生しました。1節に示されているように、「主は約束したとおりに」(直訳;主は言われたとおりに)、「主は告げたとおりに」にサラは懐妊し、無事に子どもが生まれました。神は必ず約束を成就されるのです。しかし、このアブラハムの出来事にもあるように、いつそれが果たされるかについては、人間にはわからないことが多いのです。私たちが遅いと感じていても、神の定められた時刻に狂いはありません。約束の成就を待つ中で、神は私たちを信仰の成長へと導かれます。もっと忍耐深く、もっと困難に耐え抜くことのできる信仰者に育てるために、もっと神に信頼して神にのみ希望を置く者となるように、もっと神に祈り、神と交わる人となるために、神は最善の導きをもって私たちを整えてくださいます。
アブラハムは進んで従順をもって神に応答した
アブラハムは、約束の成就を受けて、信仰の従順さをもって神に応答しました。まず、その子どもの名を「イサク」と名付けました。これは主から以前に示されていた名前です。そして、第二に、生まれた子どもの八日目に割礼を施しました。祈ってかなえられたことについて、私たちもアブラハムのように、積極的かつ信仰の従順をもって、さまざまな応答を主にいたしましょう。
アブラハムは喜びと感謝を表した
そして次に、アブラハムとサラは、約束の成就を受けて、あふれるばかりにその喜びと感謝を明確に示しました。「乳離れ」したイサクが3歳ぐらいの時に、大きな宴を催しました。サラの告白は印象深い言葉です。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」(6節)。真の笑いは神が与えてくれることをサラは知りました。神の約束の成就ほど、私たちを心から喜びで満たしてくれるものはありません。詩篇126篇1〜2節「主がシオンを復興してくださったとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びに叫びで満たされた」。イサクという名前は、笑うという意味の言葉から来ていることは以前見たとおりです。サラもアブラハムも、最初は不信仰と疑いの微笑から始まりました。しかしその笑いは、約束の成就によって、心からの感激の笑いへと変えられたことを聖書は証しをしています。
3,立ち現れる問題に向き合って打ち勝つ信仰(8〜21節)
争いや問題を避けて生きることはできない
しかし、この21章を続けて見て行くと、ヘブライ語でのイサクの元の言葉ツァハークは、6節で真の笑いを告げているだけでなく、実は9節にも出て来ます。この9節は調べてみるとたいへん興味を引くところです。「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た」と記されています。そして、この「からかっている」と訳されている語がイサクの語源のツァハークです。イサクは確かにアブラハムとサラという信仰者たちに約束の成就という喜びの笑いをもたらしてくれましたが、そのイサクが同時に嘲りの笑いを浴びせられることになり、約束の子に連なる人々がやがて迫害を受けることになることをも意味していました(ガラテヤ4:29)。サラの目には、このことを放っておくと、今後難しい跡継ぎ問題に発展し、もはや手を付けることができない事態に至ることが見えていたのでした。神はご自分に信頼し、従う人々を愛し、喜びの笑いを確かにくださいますが、地上の歩みにおいて何の問題も苦しみもない人生を私たちに与えることはないのです。
問題解決のために信仰をもって決断する
アブラハムはサラから、ハガルとイシュマエルを追放するように言われ、非常に苦しみます。しかしそんな中、神はアブラハムに御声をかけられました。12〜13節です。人情からすれば、アブラハムにとって、この二人を追い出すことは到底できないことです。しかし「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」という神のご計画からすれば、それはどうしても避けられないことでした。信仰をもって主の御心に従って決断した事柄に対して、神は必ず責任を取ってくださることがここに明らかにされています。主は、ハガルとイシュマエルのことは、このわたしに任せなさい、と言ってくださいます。ここにも、信仰生涯というものが、現実逃避の道ではなく、むしろ実際の問題から目をそらさず、それに真正面から向かい合い、主に信頼して決断を重ねていくという行程の積み重ねであることを学ぶことができるのです。