創世記 22:1ー19
礼拝メッセージ 2019.2.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,わたし以外に、ほかの神があってはならない(出20:3)
神は生涯にわたり私たちの信仰を整えられる
謎の多い聖書箇所であると前回お話ししましたが、アブラハムの物語の中心である「信仰」という観点で見ていくと、ここに示されているメッセージが明らかになってくると思います。日本語では気づきにくいのですが、22章2節に「(モリヤの地に)行きなさい」という表現がありますが、これと全く同じ「行きなさい」が、12章1節にもありました。ヘブル語で「レク・レハー」という表現です。直訳すれば、「あなたに向かって、行け!」あるいは「あなたのために、行け!」となります。12章はアブラハムの話の最初であり、神からの選びと召命の出来事でした。それは、信仰の始まりであると同時に試練の始まりでもありました。行き先がわからずに出かけるというリスクを生じることになる信仰の冒険です。22章では、アブラハムは生涯の最後の時期に差し掛かる中で、再度、神からの「レク・レハー」を聞きます。22章16〜18節において、最初の召命であった12章の約束がほとんどそのまま繰り返されています。このことが示している真理は、神は信仰者の歩みにずっと関わり続けられるということです。信仰生活が長く何歳になっても、神はまだあなたを取り扱い続けます。そして「行け!」と御声をかけられます。。私たちの内側は、死ぬまで絶えず神が刷新し続け、信仰が成長するように働きかけてくださいます(Ⅱコリ4:16)。百歳を超えているアブラハムも例外ではありませんでした。
心の偶像を取り除け
神は、アブラハムの信仰のどこを新しくするために、御声をかけ、働きかけられたのでしょうか。それは、真の神だけを神とすることでした。アブラハムの後の時代ですが、神はイスラエルの民に十戒を授けられました。その根本的な命令は、唯一の神だけを神として礼拝し、愛することでした。「わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出20:3)と書いているとおりです。22章2節で神はアブラハムに言われました。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて」と。続けて、「自分の子、自分のひとり子」(12,16節)と繰り返し言われました。まさかと思われるかもしれませんが、アブラハムにとって、イサクは十分に偶像となり得る存在でした。念願の跡取りの嫡男、やっと生まれた、高齢になってからの子どもです。可愛くないわけがあるでしょうか。しかもアブラハムの時代には、今日のような個人主義的な幸福概念は存在せず、一族にとってどうであるかが、人間の幸せのすべてでした。アブラハムにとってのイサクは、幸せと喜び、希望そのものでした。イサクは神が与えられた約束の子どもであり、神の約束の確かさのしるしでもありました。そんな大事なイサクであっても、神はそれを偶像化することをお許しにはなりません。偶像とは、人が神よりも重要であると見なすもの、その心と思いのすべてを吸収してしまうようなものです。また、神からしか得ることのできないものを、そこから得ようとするすべてのものが偶像と言えるでしょう。神を信じる信仰において、偶像崇拝ほど、神に背く悪しき行為はありません。聖書に描かれている神の民の歴史は、実に偶像崇拝との戦いの歴史でした。旧約聖書を読む時、なぜ、生きて働かれる真の神がおられるのに、あんなに簡単に木や石で作った偶像に心奪われて、罪を犯してしまうのか、理解に苦しみます。なんと愚かなことだと思ってしまいます。しかしながら、現代も同じ誘惑が姿形を変えて、絶えず私たちを惑わしているのです。
2,試練とともに脱出の道を備えてくださる(Ⅰコリ10:13)
神は私たちを試みられるお方
この22章は、神は私たちを試みられるお方ですが、同時に必要を備えてくださるお方であることも明らかにしています。もちろん、神が試みられるということについて、困惑したり、受け入れがたい思いを誰しも持つと思います。しかし聖書を開いて見ると、神が自由に行動されるお方であり、時に人を試されること、また試練にあうことをお許しになることが示されています。「銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主」(箴言17:3)、「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる」(エレミヤ17:10)。しかし、神が私たち信仰者を試されることには、確かな目的があります。試されることを通して、私たちの信仰は練られ、より成熟した者へと成長させられるのです。「あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」(ヤコブ1:3〜4)、「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(Ⅰペテロ1:7)。
神は備えてくださるお方
しかし、神は試みられるだけではなく、備えてくださる神でもあります。22章の「アドナイ・イルエ」です(14節)。「主の山には備えがある」と説明されているこの言葉は、直訳すれば「主は見るであろう」です。ご存知の通り、この「見る」は、ただ単に視覚的に見るということではなしに、日本語で言えば「面倒を見る」の「見る」であり、「看病」という時の「看る」と言っても良いと思います。神は私たちのために、必要なことを予め見て、ちゃんと備えておられるということです。この試みる神が、同時に備える神であられるというところに、信仰の奥義とも言うべき深い真理があります。試み(1節)で始まり、備え(14節)で終わる、これが信仰の不思議なところです。試みには、必ずと言っていいほど、備えが用意されているのです。主イエスは、試みを受けられ、ゲツセマネの園で悶え苦しまれました。血の汗を流して祈られました。ご自分を十字架にささげるかどうかという試みです。しかし最後には「あなたがお望みになることが行われますように」と御父に明け渡されました(マルコ14:36)。そして十字架の死を選ばれました。しかし、十字架の後、主はよみがえられました。パウロは言います。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしと、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えていてくださいます。」(Ⅰコリ10:13)。