「未来を見つめる信仰」

創世記 23:1ー20

礼拝メッセージ 2019.2.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の約束に生きる者の死と別離(出20:3)

サラが残した信仰の証し

 サラ(元の名前はサライ)は、主に熱心に従い通した、女性信仰者の鑑のような存在でした。聖書の中に登場する女性の中で、生涯の年数が記されているただひとりの女性です(1節)。もちろん、彼女は完璧な女性ではありませんでした。ハガルをアブラハムに与えてしまったり、主からの約束を疑って、不信の笑みを浮かべたりしました。しかし、彼女は主に従うという点においては、多くの場合、夫アブラハムと同等の信仰が要求され、試されるような経験をしました。彼女は、夫とともに多くの危険や試練に遭遇し、いろいろな悩みや苦しみの中、信仰による忍耐をもって、その生涯を全うしたのです。それゆえに、使徒ペテロは次のように述べました。「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。」(Ⅰペテロ3:3〜6)。
 神の約束だけを握って主が示される地へ移動していくという危険な旅の人生を、アブラハムとともにおこなった女性がサラでした。しかも、神の約束である子どもが与えられるという奇跡を、その身に子どもを宿すことによって、アブラハム以上に味わい、経験したのはサラでした(ヘブル11:11欄外別訳参照)。生まれるはずのない子どもが与えられるこの恵みの経験は、バプテスマのヨハネの母エリサベツや、主の母マリアの先取り的なものでした。彼女は死んでもなお、信仰の証しを残しました。

アブラハムが示した悲嘆と立ち上がり

 次に、アブラハムに目を向けると、妻を失った彼の悲しみが、どんなに深いものであったのかを23章2節がよく表しています。「アブラハムは来て、サラのために悼み悲しみ、泣いた」。悲しんだと一言の表現で終わらせずに、最後に「泣いた」と、重ねて書いています。また、この「悼み悲しむ」とは、胸を打ち叩いて嘆くという意味があります。家族や伴侶を失ってしまうという喪失経験の辛さや厳しさというものを、御言葉は隠すことなく示しています。信仰を持っていても、悲しい時には悲しむべきなのです。寂しさに耐え切れず涙を流しても良いし、声を上げてわあわあと泣くことさえ人にはあるものです。自分の心の中にある悲しみや痛みを表現することは罪ではありませんし、不自然に平静を装う必要もないのです。サラを失ったアブラハムは、胸をうち叩いて泣いたのです。主イエスでさえ、「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」られたのです(ヘブル5:7)。アブラハムは悲しんだのですが、しかしそれでも絶望することはなかったのです。彼はその後に、しっかりと「立ち上がった」(3節)のでした。悲しんだ後は、立ち上がることが大切です。それはこれから見るように、地上生涯を越えてその先にある、神の約束の成就を彼がはっきりと確信していたからです。


2,神の約束に生きる者が見る未来

土地を持たない神のつかさ

 アブラハムがサラを葬りたいと願った場所は、神から受けている約束にふさわしいところでなくてはなりませんでした。ここヘブロンでアブラハムが墓地として目をつけた場所が、ヒッタイト人エフロンが所有しているマムレに面した土地、マクペラの洞穴を含む畑地でした。この土地は、この後、一族の埋葬地となりました。アブラハムの孫であるヤコブが臨終の際にこのマクペラの洞穴に自分を葬るように命じています。「そこにはアブラハムと妻サラが葬られ、そこにイサクと妻リベカも葬られ、そこに私はレアを葬った」(49:31)。
 ここでアブラハムのセリフに注目すると、彼はヒッタイト人たちに向かって自分のことを「私は、あなたがたのところに在住している寄留者」(4節)であると告げています。自分はこのヘブロンの地において、何の力もないひとりの寄留者であり、一時的な滞在者にすぎない者であると告白しています。しかし、それに対して、ヒッタイトの人たちは、アブラハムのことを「神のつかさ」(6節)と呼んでいます。この両者の会話に示唆された、ギャップに目を留める必要があります。アブラハムの謙遜とも見える自己表現の「寄留者」と、ヒッタイト人の表明した「神のつかさ」との間にある差です。ヒッタイト人が語った「神のつかさ」とは、神の君主とも訳せる言葉で、他の訳では「神に選ばれた人」(新共同訳)、「強大な権威を持つ王子」(アンプリファイド訳)とも表現されています。そんな評価を受けられる人物が、寄留者であり、一つの土地も権利も所有していない、力のない弱い状態で生きているということを聖書は描いているのです。

天の故郷を見つめる

 かつてアブラハムに対して主が与えると約束された土地はカナン全土でした(15:18〜21)。アブラハムが銀四百シェケルで手に入れた土地は、それに比べるとほんのわずかな一部分、そのかけらに過ぎませんでした。当時、銀四百シェケルがどれほどの価値であったのかわかりませんが、計算すると銀4.5キロ分とはかなりの量で、「何ほどのこともないでしょう」とは、とても言えないような金額だったことでしょう。それでも得た土地はやはり小さなものでした。聖書は、この世にあって私たちも寄留者であり、旅人であることを告げています。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(Ⅰペテロ2:11)。今の歩みにおいて神の約束を完全に受けてはいないし、これから与えられるという約束の手付金を受けているだけの状態です。アブラハムもサラも、約束のものを手に入れることはなく、はるか遠くにそれを見て喜び、地上で自分たちは旅人であり、寄留者であることを告白していました。彼らが心から憧れていたのは、今見ているものよりも、さらにすぐれたものである、天の故郷だったのです(ヘブル11:13〜16)。悲しみに暮れながら、小さな埋葬地を購入するために、一生懸命交渉をして、愛する人を埋葬しているアブラハムの姿には、パウロが描くキリスト者の姿と重なります。「私たちは…真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」(Ⅱコリント6:8〜10)。