「本物の福音」

コロサイ人への手紙 1:1ー8

礼拝メッセージ 2019.3.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,福音の真理の中心—キリスト

目に見えない敵

 これから見ていくコロサイ人への手紙は、私たちが信じている信仰の対象であるお方、キリストに強く焦点が当てられた内容となっています。これは使徒パウロが獄中で記した手紙で、「獄中書簡」と呼ばれているものの一つです(他に、エペソ人への手紙、ピレモンへの手紙、ピリピ人への手紙)。
 コロサイ人への手紙を読むと、当時、パウロやテモテ、エパフラスといった教会指導者たちや、教会に導かれている人たちが、何か巨大な敵と戦っていた様子がうかがえます。それは、この書に書かれている「空しいだましごとの哲学」(2:8)や、律法主義的な考え(2:16)や、「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者」(2:18)といった記述から、何かの異教や異端的な教えなどのこともあったでしょう。またローマ帝国が絶大な権勢を持って人々を支配していたということもあったでしょう。
 パウロがこの書を書いた時、彼はローマで「牢につながれている」(4:18)状態にありました。彼はエルサレムの騒動で捕縛されてカエサルに上訴し、地中海を渡ってローマに護送されました。この書を書いている時、彼は獄中にいました。彼はこれまで地中海世界を駆け回り、キリストを宣べ伝えていたのですが、そこで身を持って知ったことは、ローマの政治権力の強大さであったと思います。ローマ皇帝の世俗の力と、パウロが語る福音の力の闘争がもうそこに生じていたのです。

キリストへの集中

 現代においても、信仰をもって教会に連なり、主にある民として歩む中で、目に見えない何かと絶えず戦っているような感覚はないでしょうか。それが何かと問われても、はっきりと表現できません。信仰による表現では、この世の力とか、自らのうちにある肉や罪の性質に対して、あるいは悪魔のような霊的存在者たちによるもの、と言えるのかもしれません。それが何であるにせよ、その大きな力に対して、屈服したり、戦いを放棄する訳にはいかないのです。信仰者は、この書を書いたパウロのように、主にある戦闘を勇敢をもって戦い抜かなくてはならないのです。この書には、そういう目に見えぬ戦いの中で、誰に目を向け、どのように生きるべきかを示す手がかりが記されています。私たちのうちで今も後も「力強く働く」(1:29)キリストにしっかりと目を注ぎ続けるように熱く語っている書です。というのも、私たちを圧迫しているものがどれほど大きなものであったとしても、どんなものとも比較にならないほど偉大なお方を私たちは持っているからです。そのお方こそが「私たちの主イエス・キリスト」(1:3)です。
 コロサイ人への手紙と兄弟書簡と呼ばれるエペソ人への手紙は、同じ時期に書かれ、ローマのパウロから、ティキコによって教会に届けられました(エペソ6:21〜22,コロサイ4:7〜9)。内容も構成も似た部分が多くある両書ですが、エペソ書のほうは「キリストの教会」が主題であり、コロサイ書のほうは「教会のキリスト」が主題であると言われています。コロサイ書の焦点は、「キリスト」にあるのです。コロサイ書によれば、キリストへの集中こそが、私たちの心の覆いを取り除く、すべてのことへの答えとなるのです。


2,福音の真理は、キリストに対する信仰へ導く(4節)

 パウロは3節でいつも神に感謝していると述べています。パウロの心を喜びでいっぱいにしていたのは、コロサイ教会の信徒たちの中に見られる3つの特徴でした。1つは、彼らのキリストに対する信仰です。2つ目は、彼らの聖徒たちへの愛でした。3つ目は、天に蓄えられている希望です。福音の真理がもたらす最強のトリオは不変であり、それは信仰・愛・希望です。コロサイ教会はパウロが開拓した教会ではなく、7節に書いている「エパフラス」という彼の弟子によって、伝道され、教会が形成されたようです。エパフラスは、彼らに福音の真理を正しく説き、キリスト・イエスについて教えました。彼らはそれを聞いて、「本当に理解して」(6節)、しっかりと主に対する信仰に立ちました。教会の人たちは、この手紙にあるように、様々な異なった教えや考え方によって、動揺させられていました。今日の私たちの場合、そのような目に見える脅かしが、たとえなかったとしても、福音の真理を矮小化したり、キリストという方の大きさや素晴らしさを見失わせるという誘惑や誤りに導くような姿なき影の声に惑わされていることがあるかもしれません。そういう意味では、6節にあるとおり、「本当に理解」すること(ギリシア語辞書によれば、「完全に知る」「十分に知る」という意味)が大切です。そして、その十分に理解すべき内容が、この書で改めて語られていくことになります。


3,福音の真理は、聖徒に対する愛へと導く(4、7〜8節)

 福音の真理は、聞いたその人個人だけを幸せにするようなものではありません。福音はいつも私たちに人と人との関係や繋がりに目を向けさせるものです。コロサイ教会の人たちは、互いに愛し合い、助け合うことを実践していたのでしょう。人は愛されていることがわかると、人を愛するようになると言われます。私たちは、十字架で示された神の愛を知ることによって、神に愛され、受け入れられ、赦され、大切にされていることを悟ります。神より受けた愛は、互いに愛する愛へと向けられます。


4,福音の真理は、天にある希望へと導く(5〜6節)

 3つ目は希望です。5節に「天に蓄えられている望み」と書いてあるとおり、この希望は、天に蓄えられているもので、今この手で掴むこともできず、見て確認できるものでもありません。しかし、彼らは福音の真理によって、この希望を心に抱いていました。ペテロの手紙第一にも同様な表現があります。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。…これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」(Ⅰペテロ1:3〜4)。6節にあるように、福音のことばが広がり、世界中で実を結び成長しているから、希望が持てるのではありません。逆なのです。「天に蓄えられている望み」を持っているから、希望があるから、実を結ぶことができ、成長できるのです。