「平和の神」

イザヤ書 19:16-24

礼拝メッセージ 2019.3.10 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


エジプトについて

 イザヤ書19章には、エジプトへの裁きの言葉と救済の約束の言葉が記されています。まず、出エジプト記を思い出してみてください。ヘブライ人たちはエジプト人によって奴隷状況に追いやられました。エジプトはその富や権力を維持するために奴隷を酷使しただけでなく、モーセを通じて語られた神ヤハウェからの言葉や警告を無視し続けたのです。エジプトは、イスラエルの神ヤハウェとその価値観に敵対する象徴として理解されるようになりました。歴史的には、エジプトは古代イスラエルと関わり続け、メソポタミアの帝国がイスラエルに圧力をかける中で、イスラエルは仇敵であるエジプトに助けを求めようとします。実際、イザヤ書19章はそのような歴史的背景があるとされています。


エジプトへの裁きと救済の約束

 19章の前半は、エジプトへの裁きの言葉が連ねています。権力志向で、その富の追求は飽くことがありません。しかしエジプトは内部から崩壊します。自然災害が暗示され、権力闘争が激化します。イスラエルにとればそのような状況は好ましいことでしょう。自らの存在を脅かし続けたエジプトが消えれば、自分たちは安寧に暮らすことができると考えるからです。でも、19章の後半はそのようなエジプトに対して救済と祝福を約束します。イスラエルのコミュニティーがエジプトに建てられるようになります。そのコミュニティーがエジプトから迫害を受けますが、ヤハウェは彼らのために救い手を送るのです。かつてエジプトで苦しみを受けた奴隷たちにモーセを遣わしたことを思い起こさせます。虐げられた人々が救済されることでは同じですが、今回はその時とは違うことが起きます。モーセの時は、エジプトはヤハウェを知らないと言い続けました。しかし、新しいエジプトへのビジョンでは、エジプトはヤハウェを知るとあります。暴虐による支配への責任を追及されるとはいえ、エジプトはそのヤハウェによって癒され、回復させられ、ヤハウェに従っていくとのビジョンです。このビジョンはエジプトとイスラエルとの平和のつながりには収まりません。イスラエルを抑圧するアッシリアとの平和を実現するまで、ヤハウェの働きは続くのです。このような古代帝国がイスラエルの神の価値観に生きることを決意する中で、互いの平和が保たれるというメッセージをイザヤ書は発しています。


争いの現実

 人間とその社会の現実は争いの連続です。歴史と現状を見れば、また私たちの経験を見れば、争いがない時代や状況など理想でしかないと思わされます。聖書もそのような人間の現実を冷徹に物語ります。実際、エジプトにユダヤのコミュニティーがあったとはいえ、本日の聖書箇所の平和のビジョンが歴史的に実現したことはありません。エジプトがヤハウェを知ること、ヤハウェに信頼する生き方を選んだことはないのです。しかし、ヤハウェは敵であるエジプトの救済と祝福について語ります。聖書の神、とくに旧約聖書に描かれている神の姿に戦いのイメージや暴力的な裁きのイメージを持つ人は多いでしょう。確かにそうです。出エジプト記には神ヤハウェは「いくさびと」として告白されています。ヨシュア記や士師記にもヤハウェの戦いが描かれています。しかし、ヤハウェは自らに敵対する者を救おうとする、預言書には多くの平和のビジョンが書かれています。


敵を救う神

 ヨナ書には、敵を救う神とそれを受け入れない人間の姿が対照的に描かれています。北イスラエルを滅ぼすことになるアッシリアの首都ニネべをヤハウェは救い出そうとします。預言者ヨナは、ヤハウェが敵であるニネべを救い出すことを予測して神の命令に逆らいます。しかも、神がニネべを滅ぼさない決意を見て神に怒ってしまうのです。人間が互いに関わり合う中で、争いが起きるのは仕方ないでしょう。しかし、敵である者を排除すれば問題は解決すると考えるのか、不可能と思えても和解の道を探るのか。前者がヨナの考えであり、私たちの本音です。しかし、神は後者の道を示したことになります。平和ボケというならば、神ヤハウェが最も平和ボケしています。よく考えれば、エジプトはヤハウェに逆らい続けたとはいえ、それは神の民であるイスラエルも同じです。敵である者を滅ぼして欲しいと願うことは、神の前では自分にその願いが帰って来ることになります。争いの解決は相手があることなので、絶対的な方策はありませんし、ましてや自分にとって都合のよい結果など誰も保証してくれません。私たちが覚えておきたいことは、敵を救う神の姿であり、それがイエスの言葉と行いそのものに重なることです。そこに希望があることを聖書は示していることである。