「成長のための祈り」

コロサイ人への手紙 1:9ー14

礼拝メッセージ 2019.3.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,私たちは祈り求めることをやめない

獄中にあって何をするか

 前回もお話ししたように、コロサイ人への手紙を書いていた当時、パウロは牢につながれていました。「この奥義のために、私は牢につながれています。」(4:3)、「私とともに囚人となっている…」(4:10)、「私が牢につながれていることを覚えていてください。」(4:18)と書かれています。使徒の働き28章を見ると、それはある種の軟禁状態であったのかもしれません。狭い鉄格子の檻の中で縛り付けられているようなことではおそらくなかったと思いますが、それでもほとんどの自由は制限され、24時間監視下にあり、どこへも行くことはできなかったことでしょう。この書がそういうある種の極限状態にあった人によって記されたことを心に留めて読む必要があります。覚悟の上とはいえ、もしかすると処刑されるかもしれない緊張の中で、しかも自由に動き回ることもできない状態で、パウロは日々を過ごしていたのです。

いつでもどこでも祈る

 パウロは獄中で何をしていたのでしょうか。この書であきらかにされているとおり、彼はどんな状況下でもできるただ一つのことに専心していました。それは、祈りです。おそらく、祈っては手紙を書き、書いては祈りの日々を送ったのでしょう。
 9節を見ましょう。「こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。」とありますが、この「絶えず…祈り求めています」というのは、日本語訳の聖書はほとんどそのように訳していますし、それが意味としては正しいのですが、ギリシア語の表現をそのまま使うと、「私たちは、あなたがたのために、祈り求めることをやめません」と記されています。祈ることをやめない、という固い決意をもって、パウロは祈りに励むのです。たとえ牢屋であろうと、教会で礼拝できない状態でも、からだの自由が効かない状況にあろうと、迫害があろうとなかろうと、死が近づいていても、パウロはコロサイのキリスト者たちに言います。私は決して、祈ることをやめませんと。祈りをやめない、という表現で語ったのは、さばきつかさであったサムエルです。「私もまた、あなたがたのために祈ることをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない」(Ⅰサムエル12:23)。信仰を持っていることの大きな恵みがここに明らかにされています。私たちも、パウロと同じように、どこにあろうとも、いつでも、神に祈れるのです。また、どこにいても、あなたの口から祈りをストップさせる理由は何もないことを忘れないでください。絶えず祈り続けましょう。


2,私たちは求めるー神のみこころの知識に満たされることを

祈り求める内容

 それでは、何をどのように祈れば良いのでしょうか。幸いなことに、私たちの最も尊敬する信仰者パウロ本人から、具体的な祈りの内容をしっかりと教えてもらえます。ここでパウロが求めていることと、私たちが日頃、教会や家庭で祈っていることは同じなのかどうか、あるいは、その祈りの方向性がみことばと合致しているかを確認しつつ学ぶならば、私たちの祈りは劇的に変わるでしょう。内容が記されている9〜12節は、大切なことが凝縮されていることばですから、読み解いていくことは簡単とは言えません。とにかく9節の「どうか …」から目を通してください。そうすると、文章構造と内容から、だいたい次の三つのことが祈り求められていることがわかります。一つ目は、神のみこころを知る知識に満たされることを祈り求めています。二つ目は、主にふさわしく歩んで成長することを祈り求めています。三つ目は、神の御力によって強められることを祈り求めています。

神のみこころについての知識

 まず、神のみこころを知る知識に満たされることですが、これは短く言えば、満たされるための祈りです。何に満たされるかと言えば、それは知恵、理解力、知識です。と言っても、それは一般の学問的知識や、世渡りや生活のための知恵でもなく、神のみこころを知る知識です。神のみこころとは、言うまでもなく、神が何を願っておられるのか、私たちをどう導いておられるのか、ということです。神のみこころと言うと、とても広いことなのでわかりにくいと思いますが、一つの例を挙げると、神理解と人間理解とのつながりです。神理解を深めることは、人間理解を深めます。したがって、人間理解が浅いということは、神知識も深まっていないということになります。


3,私たちは求めるー主にふさわしく歩んで成長することを

主にふさわしく

 二番目に、10節を見ると、ここに「主にふさわしく歩む」ことが書かれています。「歩む」というのは、日々の生活そのものです。「主にふさわしく」というのは、新約学者のD.A.カーソンは、それは主に恥をかかせないことだと解説していました。キリスト者は、何か特別な衣装を身にまとっている訳ではありませんが、一度「私はクリスチャンです」ということを周りに告げることによって、他からクリスチャンである誰々さんとして見られます。これは、皆さんが社会的に所属していることでも同じです。◯◯学校の生徒、◯◯会社の社員、その肩書を背負って、日々歩んでいます。万が一、不祥事を起こすと、どの学校の生徒か、あるいはどこに勤めている人であるのかと確認され、所属先にも悪いイメージを与えてしまいます。私たちはキリストの看板を背負っています。

祝福のスパイラル

 キリスト者として、私たちは主に恥をかかせないように、歩まなくてはなりません。でも、それは失敗を恐れて何もしないという消極的な生き方とはならず、「あらゆる良いわざのうちに実を結」べるように、主に喜ばれることを求めて、リスクを覚悟して前進していく歩みです。9〜10節は、「知識」や「知る」ということで囲い込まれている文章です。この二つの節は、スパイラルのようになっています。神のみこころを知って、実生活で主にふさわしく歩むと、神を知ることにおいて成長していくことになる。そのようにして、知って、歩んで、またさらに知ることになる。これは上に向かっていく祝福のスパイラルとして、キリスト者は誰でも経験できることを表していますし、それを互いに祈り求めていかなくてはならないことを教えています。