コロサイ人への手紙 1:15ー20
礼拝メッセージ 2019.3.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,歌わずにはおれないお方—イエス・キリスト
変わりゆく時代の中で変わらないもの
私たちの教団や教会の草創期、1950年頃、日本の30歳未満の人口は60%を超えていました。人口の大半は若者と子どもでした。ところが、現在の割合は27%ぐらいで、年齢の高い人が多数を占めている超高齢化社会です。また、よく知られている話ですが、オックスフォード大学の学者の研究では、米国での例ですが、現在ある職業のうち、今後10〜20年後には47%の仕事が人間の手から奪われ、機械やAIに取って代わられるという予想を立てて話題となりました。いったい、これからの時代は、どんなふうになっていくのか、想像することも難しい未来です。
こうしたあらゆることが変わりゆく世の中で、いつまでも変わらないものへの憧れやニーズは、誰しも抱くことではないでしょうか。今日は、いつの時代にあっても、揺るがされることのない、人生の中心、人の心の中で核となるような存在をお伝えしたいと思っています。結論から言えば、それは、イエス・キリストです。さて今日、ご紹介する聖書のことばには、そのことが明確に記されていますが、これを書いたのは、パウロという人です。彼の生きていた時代は、ローマ帝国の力がどんどん強大になっていく中で、彼の魂の祖国ユダヤは植民地化され、その中心地エルサレム滅亡のカウントダウンが始まっている状況でした。しかもこの手紙は、彼が囚われの身となっている中で書かれました。
世の中の変化も、人の心に重くのしかかるものですが、個人の上に起こるアクシデントはなおさらであると思います。では、パウロは牢にあって、意気消沈したでしょうか。その時代に翻弄されたのでしょうか。どうもそうではなかったようです。別の出来事の時の内容ですが、使徒の働き16章に次のようなことが記されています。占いをする女奴隷の中にあった悪霊を伝道旅行中のパウロが追い出したところ、その女奴隷から収入を得ていた者たちがパウロたちを訴えました。それにより不当にもむちで何度も打たれた上、足枷をはめられて、牢屋にぶち込まれてしまったのです。その牢の中でパウロの様子が25節にあります。「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた」。むちで打たれた背中が疼く痛みの中、牢に入れられているのに、賛美を歌って過ごすというのは普通のことではありません。
イエス・キリストを歌う
実は、今日の聖書箇所の1章15〜20節は、当時の讃美歌の一部であったと言われています。邦訳聖書ではそうなっていませんが、原文のギリシア語校訂本(例えばネストレ28版)では、この部分は段落を下げて、詩文とわかるかたちで記されています。もしかするとパウロは、この箇所を歌いながら記したのかもしれません。あるいは先程のピリピでの出来事の時、このような内容の賛美を歌っていたのではないかと、私は勝手に想像しています。大事なことはパウロという人物の豪胆さというよりも、彼が歌った歌の内容です。パウロがどこにいても歌わずにおれない、賛美の対象となった存在そのもののことです。それは明らかにキリストです。
このお方に対する集中した思いは、パウロだけに限ったことではありませんでした。「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)。「キリスト者」とは英語で言えばクリスチャンですが、これは自分たちでそのように名乗った訳ではなく、外部から名付けられた呼び名でした。なぜ、そう呼ばれたのかといえば、彼らがいつでもどこでも、どんな時でも、彼らの口から聞こえて来るのは、「キリスト」だったからでしょう。なぜ、それほどまでも、イエス・キリストにこだわるのか、集中するのか、その理由を見ましょう。
2,万物の創造者、存在目的—イエス・キリスト
すべてはキリスト
15〜16節を御覧ください。「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」15節の「先に生まれた方」とは、ギリシア語辞書の説明によると「生まれる」というところに強調点はなく、この語は初子や長子が持っている「力」や「権威」の保持者であることを示していると書いていました。
ここに書かれていることはあまりにも大胆すぎる宣言です。「万物」、この世界に存在するすべてのものは、キリストによって造られているし、しかもキリストのために存在しているというのですから。教会がキリストのためにあるとか、あるいはこの教会の中におられるクリスチャンのお一人ひとりがキリストによって造られ、キリストのためにある、というのならば誰でも納得しやすいでしょう。しかし、ここで言われていることは、そうではありません。どんな限界や境界線もなく、すべてのもの、万物について、あるいは目に見えるものも、見えないものも、全部なのです。この世界に存在するすべてのものは、御子キリストによらなければ生まれなかったし、存在することもできなかった。そして、どんな被造物も、御子のために今、保たれているし、存在しているというのです。
キリスト者と呼ばれる理由
この聖書のことばをストレートに受け取ると、いったいどうなるか、何が私たちに起こるのかということですが、実は、それが使徒の働き11章26節にあった、周囲の人々から「キリスト者」と呼ばれるに至った根本的な理由なのです。彼らは、何を見ても、聞いても、すべてはキリストによって、キリストのために、というスタンスで生きていました。その生き方はまさにキリスト漬けにされたみたいに、頭のてっぺんから爪先まで、キリストに覆われてしまっていたということです。イエス・キリストを信じるということは、そういうプロセスの中に入れられ、成長していくということです。
どうか、この素晴らしいお方を求めていただきたいと思います。そして、キリストを信じて、救いの恵みにあずかってください。キリストの十字架の血によって、私たちは神との敵対的な関係から、義と平和の関係に移されました。それゆえ、私たちも神との平和を宣べ伝え、万物を和解された方の御心に従い、あらゆる関係性の中に、平和と愛の関係性を築くように導かれています。