「神と和解せよ」

コロサイ人への手紙 1:21ー23

礼拝メッセージ 2019.4.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,あなたがたは以前どのような者であったのか(21節)

御子の福音

 パウロは、15〜21節、おそらく古代の讃美歌のようなものですが、御子にあって、御子によって、御子のために、というふうに、神がキリストにあって何を私たちにしてくださったのか、何のためにしてくださったのかを記しました。この世界の創造は、御子にあって、つまり御子イエス・キリストのご支配の中で行われました。そして、御子によって、すなわち、御子の御業によってすべてのものが造られました。そうして造られたすべてのものと世界の究極の目的は、御子のために存在しているということでした。ところが、救いの歴史からも、私たちの経験からも、この世界は現在、御子によって、御子のために造られ、保持されているとは思えないような状況にあります。多くの人々は神に対して無関心であり、罪のほうへ傾いているように見え、あるいは引き込まれて堕落し、数々の悲惨な現実を見ています。しかし、福音は次のことを示しています。この世界は、御子にあって、御子によって、御子のために造られましたが、罪が侵入してしまい、神の前に堕落し、呪いと滅びのもとに置かれてしまいました。けれども、神は、私たちのこの不完全で滅びゆく世界を放っておかず、御子にあって造られたところの本来のあり方に完全に回復していくために、御子キリストを通して御業をされたのです。そのことについて明確に歌われた内容が、この1章20節です。御子によって、御子のために全被造物と和解をさせるために、御子が十字架の上で血を流されました。このことを受けて、21節から23節のことばがあります。

あなたがたも、かつては神から離れ

 パウロはまず、かつて自分がどのような者であったのかを思い起こさせています。「あなたがたも、かつては神を離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありました」。「神を離れ」とは、神から縁遠い存在になっていた、あるいは遠ざけられた状態にいたことを指しています。「敵意を抱き」とは、その考えや思いにおいて神に対して憎悪の念を抱いていたということです。ここに書かれている「悪い行い」とは、ある注解書によれば、悪行を働くという意味というよりも、愛のない行動を指していると書いていました。悪い行いはしていない、と誰しも思いますが、周りの人々に対して、愛のある行動や言動をしているかと問われれば、答えに困るかもしれません。神に愛され、完全に赦されていることを信じていなければ、愛をもって行動する力はなかなか生まれてこないのです。


2,あなたがたは今どのようなところに立っているのか(22節)

キリストのさばきの座に立つ

 さて、22節では、そのような神の愛から離れていた者が、今や和解させていただいたと書いています。和解という表現は、関係性や立場に焦点が当てられています。神が和解させたとは、神が人をご自身との関係において、完全に新しく変えてしまい、呪われるべき存在から、愛されるべきご自分の子どもへと変えてしまわれたということが意図されています。それは人間の力によって得られたものではなく、神が御子キリストを通して、私たち人間に与えてくださった、素晴らしい恵みなのです。注目すべきことばは「御前に立たせる」という表現です。これは、私たちの立場がどのようなものにされているかということを明らかにしています。私たちは、誰でも、いつかは、キリストのさばきの座に立たされることになります。「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです」(Ⅱコリント5:10)。神が私たちと和解してくださったことがはっきり現れる場は、これから後のキリストのさばきの座です。そこで、私たちが、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として、キリストの御前に立つことができることを、この22節は語っています。

高価な慰め

 それが受けられる根拠は、「御子によって、御子のために」ということでしょう。ベツレヘムの飼い葉桶に生まれ、十字架の苦しみを引き受けて、死なれたお方が、さばきの御座につかれるのです。このさばきの座で思い起こしたのは、イスラエルに行ったときに見学した「ガバタ」です。これはヨハネの福音書19章13節に述べられているピラトがイエスに判決をくだした、日本で言うならば江戸時代の奉行所の白洲(「おしらす」)のようなところです。この遺跡を見学した時、すべての人間をさばくはずの神が、あべこべに人間にさばかれて、不当な死刑判決をここで受けてくださったのかと思うと、胸のうちに熱く迫って来るものを感じました。私たちのために、さばきを受けて十字架に架かってくださったお方の御前に、聖く、傷なく、責められない者として立たせていただけるというのは、とてつもなく大きな神の恵みであり、慰めです。さばきの座に立つ方が、誰も見たことのない、見知らぬ世界の統治者であるなら、私たちはこの世界の不公平や生きている期間に感じてきた問題を並べ立て、自分の罪を棚に上げて言い訳するでしょう。しかし、そうではないのです。下へ下へと謙りの生涯を貫き、最後には十字架の死を遂げてくださったお方の前に出ることになるのです。この人生の総決算、神の「おしらす」に出ることを真剣に受け取るならば、今という時をいい加減に過ごすことができなくなってしまいます。ですから、カール・バルトは、これは「安価な慰め」ではなく、「高価な慰め」であるとある説教の中で表現しました。


3,あなたがたはこれからどのように歩むべきか(23節)

 23節は命令文のように見えますが、原文では、「もしあなたがたが本当に信仰にとどまり、…福音の望みから離れ去らないならば」という条件文です。しかしこれは、高い要求をつきつけて、私たちに何かの努力を強いるというものではなく、この世の考えや罪に惑わされずに、信仰に踏みとどまるようにという強い励ましのことばです。確かに信仰の歩みには、戦いの側面はありますが、信仰の根本は、私たちが努力して行ったことや、獲得して得たことにその本質があるのではなく、神が、あるいは御子が、成し遂げてくださった御業に対する心からの信頼です。いつの時代でも、どこの場所においても、変わることのない福音。この福音の希望である神との和解を信じて、今、受け入れましょう。