「隠されている宝物—キリスト」

コロサイ人への手紙 2:1ー5

礼拝メッセージ 2019.4.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,パウロは誰のために奮闘していたのか―教会のため

パウロの奮闘

 コロサイ人への手紙で、「奮闘する」という意味の言葉が3回出て来ます。1章29節「このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」、この2章1節「私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。」、そして4章12節「…彼(エパフラス)はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。」です(下線は筆者)。「奮闘」、「苦闘」、「励む」と訳されたこれらの言葉は、原語では同じ語が使われています(厳密には、動詞形と名詞形の違いがある)。パウロやエパフラスは、奮闘していました。この「奮闘する」(ギリシア語で名詞形はアゴーン、動詞形はアゴニゾマイ)という語は、スポーツ用語で、競技や競走、対戦することを意味する言葉です。競技者(アスリート)たちは、勝利を得るために、必死になって、全力を尽くして戦います。集中力を高めて、自分の限界を超えるような最高のパフォーマンスができるように努め、与えられた舞台で全身全霊をもって挑戦していきます。パウロが2章1節で「どんなに苦闘しているか、知って欲しいと思います」と書いているのは、苦労を知ってもらって、ねぎらいの言葉や称賛を浴びたいために言ったのではありませんでした。むしろ、彼が苦闘していることが、誰のためであり、何を伝えたくてそうしているのかを、彼らによく知ってもらいたかったからであると思います。

教会のための奮闘

 まず、パウロの奮闘は、誰のためであったかと言えば、1節と5節、そしてこの書全体が示しているように、それは教会のためでした。教会は、御子キリストをかしらとする、信仰の共同体です。教会と言えば、一つの人間の集まりや組織として理解するかもしれませんが、パウロは、全体のために個である一人ひとりが軽んじられるような冷たい人間的な組織体のために奮闘していた訳ではありません。教会は、キリストのからだであり、一人ひとりが各器官であるとパウロは説明しています。からだは各器官より成っている存在であり、誰かが欠けても、完全にはなり得ず、一人ひとりがかけがえのない存在として理解されています。ですから、パウロが労していたのは、教会という私たち一人ひとりに対するものでした。2節には「励ましを受け」という言葉がありますが、「励ます」という語は、自分の傍らに、その人を呼び寄せるという意味です。ですから、慰めるとも訳せます。奮闘するというところから、何か一人でがむしゃらにがんばるような印象を持つかもしれませんが、そうではなくて、パウロの奮闘の仕方は、一人ひとりの傍らに立って慰めを与えて励まし、その人が元気に歩んでいけるように力づける、そんなあり方でのエネルギーの使い方であったのです。苦労を重ねても価値あること、パウロや主の弟子たちがそれこそ苦闘する意味があると認めていたことは、自分の喜びや安楽を求めるための努力や苦労ではなく、他の人々や教会のために、気力、体力、能力、時間、エネルギーを捧げて、キリストに仕えることでした。


2,パウロは何を伝えたくて奮闘していたのか―キリスト

隠された宝

 パウロのその宣教や伝道のためにしている苦労を支えていたのは、その宣教の中身そのものでした。彼が伝えていた真理、深い知恵、2節にあるように、それは「神の奥義」と呼べるもの、それが彼を突き動かしていた内なる原動力でした。この2節と3節とで、その奥義、すなわち信仰による確信へと至ることのできる豊かさや富とも呼ばれる知識は、「隠されている」あるいは「奥義」つまり何かに覆われていて、その覆いを取り除かなければ見えて来ないものとして、表現されています。
 イエスのたとえ話の中で「畑に隠された宝」という話があります。「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」(マタイ13:44)。このたとえはコロサイ2章の「隠されている宝」という内容と共通しています。このコミカルな話の中でイエスが伝えたかったことは、持っている物すべてを売り払っても惜しくないと思えるほど、隠された宝は非常に大きな価値があり、喜びがあふれるようなものであるということです。
 奮闘しているというパウロの言葉の背後には、その労苦に疲れているというよりも、嬉しくて仕方がなく、隠し切れないほどの溢れる喜びがありました。なぜなら、神の奥義であるキリストは、人間が知り得る知恵や知識をはるかに凌ぐ、とてつもない神の恵みを示しているからです。キリストは私たちの真のいのち(3:1〜3)、真の平和(3:15)です。

神の奥義であるキリストを見る

 キリストを信じることによって、神の恵みの約束の受領者であることをますます認識し、私たちは神に選ばれた者であり、聖なる者とされていることがわかり、神に深く愛されている者であることを悟ることができます(3:12)。パウロは、過去の信仰の回心経験において、目からうろこが落ちて、今まで見えていなかったものがはっきりと見えるようになることを実際に味わいました。他の人たちにもぜひこの信仰によって新たに目が見える経験を味わって欲しいと願っていたと思います。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、…望みがどのようなものか、…受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、…私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」(エペソ1:18〜19)。
 この宝であるキリストを見て、喜びあふれて生きるというのは、何も課題や困難がないということではありません。手紙の当時も、現代の教会に生きる私たちにも戦いがあります。宛先のコロサイの教会には、2章8節や16節以降にあるように、偽りの教えがいつの間にかウィルスのように侵入して、群れの健全な信仰による成長を阻もうとしていました。パウロは、主の働き人たちの宣教の奮闘が無駄にならないように、注意深く間違った教えに対処しようとこの手紙を書いたのですが、不安を抱いてはいませんでした。なぜなら、5節にあるように、コロサイの教会に、「秩序」があり、「キリストに対する堅い信仰」が見れたからです。