「キリストに満たされる」

コロサイ人への手紙 2:6ー15

礼拝メッセージ 2019.5.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,だれにもあなたがたを誘拐させるな!

 この手紙の最初(1:1〜8)を講解したときに、目に見えない大きな敵の存在が、この書の背景にあることを話しましたが、今日見る聖書箇所でそのことがより明確に記されています。特に、2章8節以降で、「〜させてはならない」という否定文の命令が繰り返されています。原文に即して表現を私訳で変えていますが、次のとおりです。2章8節「だれにもあなたがたを誘拐させるな!」、16節「だれにもあなたがたを裁かさせるな!」、18節「(だれにも)あなたがたを断罪させるな!」となっています。8節のことばは「誘拐させるな」と訳せるのですが、『新改訳2017』が訳しているように「だれかの捕らわれの身にならないように」となっていて、ここは捕虜として連れ去るという意味のことばが使われています。15節にも「武装解除」とか、「凱旋行列」とあり、この二つの節は、実に戦争のイメージで記されており、信仰をもって歩む中においての霊的な戦いの現実が語られています。しばしば語られていることですが、信仰生活には戦いがあります。また、信仰がない人でも、人生全般にはいろいろな戦いがあることもみなが経験しているところです。


2,「もろもろの霊」(ストイケイオン)という敵

 戦っている敵についてですが、8節で、それらが空しいものであり、人間に由来するものにすぎないことが暴かれています。今回の箇所では、「この世のもろもろの霊によるもの」という表現に注目しましょう。この語はギリシア語でストイケイオンという単語です。それは、列(ストイコス)になって並んでいるものを指しており、そこから物事の原理や原則や、自然の諸元素を意味するようになりました(参照;ガラテヤ4:3,9,ヘブル5:12,Ⅱペテロ3:10,12)。つまり、ストイケイオンとは、並べて配列できるような論理や体系をもったものということになります。例えば、星の配列から未来を占う占星術、様々な偶像の神々も配列や秩序をもった世界があり(Ⅰコリント8:5)、ユダヤ教的異端は並んだ文字からなる律法の原則から出て来ました。そしてギリシア的異端は「地・水・風・火」と並べられる諸元素や天体を霊的存在として礼拝していた、と考えられています。コロサイの教会に侵入して来る偽りの教えがどのようなものであったのかは明確にはわかりませんが、この「もろもろの霊」(ストイケイオン)という語が示すように当時の人々の思いを納得させる、ある種の体系化がされた、巧妙な思想であったと思われます。コロサイの教会が戦わねばならなかった異端も恐ろしい敵であったことでしょう。しかし、現代のストイケイオンはさらに複雑で広範囲なものであり、厄介な相手であると私には思えます。現代には、キリスト教的異端もあれば、異教である諸宗教やカルト的なもの、また様々な宗教的な思想や哲学、そして無神論を基礎とする無意識的な世俗主義または拝金主義があります。要するに、私たちを真の信仰から引き離そうとするものすべてが、今日私たちが日々戦っているストイケイオンなのです。ある人は言います。私たちの頭の中にこそ、その霊的な戦場があると。


3,キリストに満たされ、洗礼を受け、自由にされている

 私たちは日々、こうした敵に取り囲まれて、信仰生活を送っているのです。当時のコロサイ教会の人々のように、私たちもキリストに集中して歩んでいかなくてはならないのです。そこでパウロは、8節から15節までにおいて、キリストを受け入れた私たちがすでにどういう者とされているのかを明らかにして、一人ひとりの信仰の基盤を語り、力づけたのです。まず第一に、私たちはキリストにあって満たされています(8〜10節)。9節と10節を見ると、キリストの中に神のご性質が満ちていること、そのキリストが私たちのうちに満ちておられるとあります。当時も今も、一つの誘惑は、自分が幸せになるためには何か別の知識や考えが必要なのではないか、と考えてしまうことです。キリストの十分性を捨ててしまうのです。それはキリストの中にある富の豊かさや偉大さを知らずに、別のものに満たされることを求めて走り去ってしまうことです。3節「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」を忘れずに歩みましょう。
 第二に、私たちはキリストの割礼を受けています(11〜13節)。旧約聖書から信仰を考えると、神に愛され、守られ、祝福されるためには、神の民となる必要がありました。神の民に加えられるためには、肉体に割礼を施してもらう必要がありました。割礼は神のものとされた「しるし」でした。しかし、ご存じのように今はその必要がなく、キリストを信じるだけで良いのです。信じた人はバプテスマ(洗礼)を受けます。このバプテスマは、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされたことを証しするものです。
 第三に、私たちはキリストの勝利により解放され、自由にされています(14〜15節)。信仰の戦いは確かに熾烈をきわめるものですが、キリストに頼るならば、必ず勝利するという約束を私たちは受けています。キリストが愛のお方でやさしいという印象だけで捉えると、この方を何か弱々しいものと理解してしまいますが、それは全く違っています。15節にあるように、キリストは、凱旋行列で霊的悪鬼どもを捕虜として引き回して晒し者にしまうほど、力強い勇猛な戦士であり、敵たちに非常に恐れられているお方でもあります。


4,キリストにあって歩みなさい!

 語る順序は逆にしましたが、これらの信仰の戦いがあることを踏まえて、初めに読んだ6節と7節のことばがあります。両節をまとめて言えば、「キリストにあって歩みなさい」という命令のことばに要約できます。歩むという表現からわかるように、それは知的に頭だけで教理を理解するというものではなく、全身全霊をもって、具体的な生活をする中で、キリストの中に生きていくことです。キリストのうちに生きるとは、キリストの受難をわがものとして受け取り、そのよみがえりのいのちに日々新しくされながら生きることです。7節は、それを建築物のイメージで表現しています。「キリストのうちに根ざし」の「根ざす」とは、地中深くを掘って支柱を立てる意味です。「建てられ」とは、その確かな支柱の上に頑丈な家を建てていくことです。地表部分だけではなく、自分の心の奥深いところにキリストの土台を据えるということが肝要です。そして堅牢なつくりの立派な家を建てていく歩み、それこそが生涯続いていく私たちの信仰の営みです。