「人間の戒めや教えからの自由」

コロサイ人への手紙 2:16ー23

礼拝メッセージ 2019.5.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,律法主義からの自由(16〜17節)

 16節で「だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません」と書いていますが、偽りの教師たちよりも、もっと律法を順守すべきであるとの読み方もできますが、文脈から明らかなように、もちろんそうではありません。律法主義によって諸規定を守っていることの優越感をもって他の人々を裁いたり、救いや特別な恵みを自らの行いで得ようと考えたりすることに問題があることを示しています。律法主義という考え方は間違いですが、律法そのものは神から与えられたもので何ら悪いものではなく、むしろ尊く素晴らしいものです。旧約聖書においての律法は、神がご自身の民であるイスラエルと結ばれた契約のあり方でした。律法によって定められた食物規定、さまざまな祭り、安息日のこと等、それぞれに大切な神の教育システムであったと思います。たとえば、食物規定というのは日々食べたり、飲んだりする日常生活に直結しているものです。私たち教会全体の成長を思うとき、教会にいる時だけではなくて、日々何かのかたちで神を身近に思いながら、信仰によってしっかりと生きていく方法はないものだろうかなどと考える時、この律法の規定が使えたら良いのにと思うことがあります。例えば「種なしパンの祭り」というものがありました。過越しの祭の翌日(ニサンの月の15日)から21日までの一週間は、出エジプトの救いの出来事を覚えて、イースト菌の入っていないパンしか食べられません。一年のうちのこの七日間はふつうのパンを食べることはできないのです。それはシナゴーグにいる時だけではありません。その週はパンといえば種なしパンしか食べられません。こういうふうに、その人の日常生活にある種の不自由を強いるようなことですが、しかしそれによって、その人は自分が神の民に属しており、神の救済の御業にあずかっていることを生活の中で思うことができるのです。祭りにしても安息日にしても、信仰者たちが自分の生活の中で神を思い、神の民とされていることに感謝を捧げることができました。
 ところが今日、祭儀律法としての規定を私たちは守っていませんし、守る必要がないとされています。食物規定であれ、祭りであれ、それを守ることによって主をより深く覚えていくという恵みを忘れて、いつの間にか、それらを守るというそのことに心奪われて、守っている度合いを競い合ったり、互いに裁き合ったりして、主のみこころからはずれていくのです。あるいは、自分はこれこれを正しく守っているということに救いの保証を得ようとしてしまうのです。新約聖書を読んでいて、誰もが気づくことは、初代教会において、この律法主義による束縛からの解放と自由を得ることが、いかに難しく困難な道であったかということです。これはしかし、現代も続いている課題です。信仰によって始められたことがその意義が段々見失われて、ただカタチだけが残るというようなことが起こり得ます。しかし、大事なことは本体であるキリストです。それがキリストのからだとして意味を持っていなければ、虚しいものになってしまいます(「本体はキリストにあります」というのは、直訳すると「キリストのからだ」です)。


2,神秘主義からの自由(18〜19節)

 18〜19節には、「自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者」と書いています。神ではなく、御使いを拝むというのは、どのようなものなのか確かなことはわかりません。でも、「御使い」というものが霊的な存在として広く理解されていたことを考えると、今日のオカルティズムのようなものと近いのかもしれません。あるいは、18節後半に「彼らは自分が見た幻に拠り頼み」と書いていますが、この「幻」と訳されたことばは翻訳が困難で、元々「入る」という意味のことばです。20世紀の初め、ディベリウスという学者がクラロスという場所にあったアポロ神殿の中で発見された碑文の中で、この「入る」ということばが繰り返し出て来ることに気づきました。調査してみると神秘宗教の神殿となっていたその場所で、そこを訪れた当時の信者たちがさまざまな宗教儀式を受けたあと、最後にその儀式の頂点としてその聖所に足を踏み入れていたことがわかりました。そこに入ることで、何かの秘儀を伝授されたようです。ですから、この箇所で言われていることはそうした密儀宗教による神秘体験を指しています。
 私たちの信仰生活においても、全く神秘的な経験がないとは言えません。ことばで説明できないような経験が信仰を強めたり、深めたりすることもあります。パウロもその回心の出来事(使徒9章)で復活の主に出会ったり、第三の天に引き上げられるような経験(Ⅱコリント12章)をしました。しかし、注意しなければならないのは、その経験というものがある種の霊的エリート意識をその人のうちに生み出して、経験をしていない人への優越感となったり、裁いたりするならば、それは愚かなことです。また、そうした特別な経験に拠り頼むことは、ここで言われているとおり「肉の思いによっていたずらに思い上がって」しまうことになりがちです。問題なのは、そのことが「かしら」であるキリストに結びつかないし、そのからだである教会として、互いに成長することについて、何も寄与するところがないことなのです。


3,禁欲主義からの自由(20〜23節)

 最後に取り上げられているのは、難行苦行を実践するような禁欲主義です。前回見ましたストイケイオンも20節に出て来ます。21節には「つかむな、味わうな、さわるな」と、何かを禁止する戒めが記されています。これも当時の異教や文化がいったいどんなものであったのかという具体的なことはわかりません。私たちも、自分がキリスト者であるから、これこれのことはしないと心で決めていることがあるならば、それはある種の禁欲主義に似ています。「食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです」(ローマ14:6)とローマ人への手紙14章1〜12節にあるとおり、「〜しない」ことによって、信仰の保証としてはならないのです。19節のことばをいつも覚えておくべきでしょう。「このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです」。ここには、律法主義も、神秘主義も、禁欲主義も、私たちを成長させるものではないことが明らかにされています。私たちは、かしらであるキリストに結びついて、からだ全体としてともに支えられ、ともにつなぎ合わされ、ともに成長していくように導かれています(参照;エペソ4:16)。