「上にあるものを求めよ」

コロサイ人への手紙 3:1ー4

礼拝メッセージ 2019.5.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,キリストのいのちを生きる

信仰による「もしも」

 3章1節の「こういうわけで」は、最初から2章までで語られて来たことを踏まえるなら、どういうことになるのか、どういう生き方へとこれらの真理は導くのか、という総括的なことをこれから述べることを表しています。パウロが他の手紙でしているように、教理的な説明のあとに、実践編としての内容を始める際の書き方です(参照;ローマ12:1、エペソ3:1等)。2章20節で「あなたがたはキリストとともに死んで」とあり、この3章1節で「あなたがたはキリストともによみがえらされた」と記しています。主とともに死んで、ともに復活させていただいた、という最も大切な教えをパウロはあなたの生き方の土台とせよ、と強く語ります。日本語には訳されていませんが、3章1節には「こういうわけで」とともに、「もしも」という語が書かれています。「こういうわけで、もしもあなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら、」となっています。もちろん、ここでの「もしも」とは、確実な肯定の意味をもっての「もしも」です。
 でも、私は一応どちらの可能性もあるほうの「もしも」について、ここを読みながら考えました。人生における「もしも」(if)、は、想像の域を出ないものです。信仰を持っている、あるいは持っていないという「もしも」について考えると、主を信じる信仰というものは、本当に不思議なものであると思いました。もしも信仰を持つことがなかっとしたら、信仰による広い霊的で愛に満ちた世界があることを決して知ることもなかったでしょうし、汲み尽くすことのできない非常に膨大な知恵や知識の宝の数々を知ることもなかったでしょう。また、出会うこともなかった非常に多くの素晴らしい信仰の仲間たちとの関わりも生まれなかったし、礼拝や交わりなどの信仰生活によって得られるさまざまな経験や喜びも、全く味わうことがなかったことになるのですから。私の場合は、まさにノー・クライスト=ノー・ライフです。

今から始められる信仰の歩み

 逆に、今、信仰を持っておられない方が、「もしも」信仰を持つならば、それはたいへん大きな恵みの出来事が、これから始まっていくことを、聖書のことばは明らかにしています。そしてもしかすると、信仰をすでに持っているのに、聖書が語っている、この素晴らしい神の恵みを知らないまま過ごしているなら、コロサイの教会のある人々が惑わされていたように、「この世に生きているかのように」(2:20)、この世にとらわれ、地上にあることだけにとらわれてしまい、信仰を持っていることの真の醍醐味を味わうことなく、受けられるはずのものを何も得ない、せっかくの機会得ることのない、残念な信仰生活を送ってしまうことになります。「キリスとともに死んで、キリスとともによみがえらされた」という恵みをいただくために必要なことは、ただ信じて、告白することだけです。ローマ人への手紙10章のことばを確認しておきましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ10:9〜10)。ここにあるとおり、心で信じる、そして口で告白する、ただそれだけです。

キリストのいのちに結合する

 人間の側ですることは、聖書のことばを聞いて、信じて拠り頼むだけです。けれどもこのことによって、その人のうちに大変革が起こるのです。信じた瞬間にその人はキリストと結び合わされるのです。キリストに結び合わされるというのは、キリストの十字架と復活にあずかることになるのです。霊においてその人は死にます。コロサイ3章3節で「あなたがたはすでに死んでいて」というのがそれです。聖書協会世界連盟(UBS)のギリシア語本文には見出しが付いていますが、この3章1〜4節を含む、2章20〜3章17節の部分を「キリストにある新しいいのち」としています。M・エリクソンという神学者は、キリストに結合されることの恵みの中に、「我々は今やキリストの強さのうちに生きている」と記し、パウロが肉体の患いと戦っていたとき、その肉体のとげは取り除かれないが、それに耐えることのできる力を神が注いでくださっていることに気づいたことを書いて(Ⅱコリント12:9)、キリストと結合することによって、神が具体的な力も与えてくださることを述べています(『キリスト教神学 四』森谷正志訳 いのちのことば社)。パウロが「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘」(1:29)できたように、同じキリストのいのちの力を私たちも経験できるのです。同じように獄中で書かれたとされるピリピ人への手紙4章13節でパウロは、「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」と語っています。


2,キリストの心を生きる

 ただ、3章3節に書かれているように、キリストのいのちに私たちがあずかっていることは、今は隠されていて、目で見たり、触れたりするような、感覚的なもので味わうことはできないのです。しかし、それは4節に書いているとおり、「キリストが現れる」とき、すなわち再臨されるときに、素晴らしい栄光の中で明らかにされることとなります。そこで、この3章からパウロは具体的な生き方、信仰生活のあり方を示すのです。この教理から実践への橋渡し的な1〜4節で、「上にあるものを求めなさい」「上にあるものを思いなさい」とその方向性、生き方の目標を明らかにしています。つまり、どこを向いて、どのように生きるのか、ということです。5節以降に具体的な歩みが記されていて、性的不品行、貪欲といった悪い欲望を殺し、怒り、悪意、偽りを捨てて、むしろ新しい人として、愛に生きるように命じられています。こういう生き方の方向として、キリストのいのちに生きるということは、キリストの心を生きることであるということです。「上にあるもの」とは、神の領域、そこにはキリストがおられるのです。ですから、キリストに結び合わされたあなたがたは、そのいのちに生き、その心を心とせよ、とパウロは語るのです(ピリピ2:5)。私たちの信仰のルーツのメノナイトの信仰者たちは、この「キリストの心を持つ」ことを強調していました。キリストの心を持つということを、別の言い方として、「キリストの足あとに従う」ことや、「明け渡し(ゲラッセンハイト)」と呼んでいました。ヨハネの手紙第一にあるように、それは世を愛することや、世にあるものを愛することから離れ、キリストのうちにとどまることでした(Ⅰヨハネ2:15〜17)。