コロサイ人への手紙 3:5ー11
礼拝メッセージ 2019.6.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,古い人としての悪い欲望と徹底的に戦う(5〜7節)
悪い欲望を殺してしまいなさい
5節から、かなり激しいことばで、信仰的な警告が記されています。「殺してしまいなさい」(5節)とは、本当に強烈な表現です。このように物騒な言い方で語る理由は、それほど敵が凶暴かつ強力な相手だからでしょう。その殺す対象は誰かと言えば、「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲」と書かれています。日本語で表現するのは難しいのですが、原文では動詞の時制に注意が払われています。たとえば、アオリスト(不定過去)と呼ばれる過去時制が使われているのが、5節「殺してしまいなさい」、8節の「捨てなさい」、9節「(古い人を)脱ぎ捨てて」、10節「(新しい人を)着た」です。アオリストというのは、過去のある一つの時点で起こったことを指し示す時に使われます。それが命令文になると、継続的な意味はなくなり、ある時点で決断してきっぱりと行動するようなニュアンスとなります。つまり、殺してしまいなさいとは、躊躇せずにきっぱりと殺せ、ということであり、捨てなさいというのも、決断してきっぱりと捨て去ってしまえ、という意味になります。
悪い欲望の本質
詳しく見ると、「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲」という悪のリストは、前半の「淫らな行い、汚れ、情欲」が不道徳な性的欲望や不品行のことを指しており、後半の「悪い欲、そして貪欲」が金銭欲や所有欲による罪を示しているようです。人間にとって、どちらも非常に強い欲望であり、それによって生き方そのものが束縛されてしまう存在です。
そのように欲望に踊らされている人間の姿は、5節にあるように、それが偶像礼拝そのものであることを明らかにしています。旧約聖書で、イスラエルの民がたびたび偶像礼拝の罪を犯して、神から裁かれ、最終的にはアッシリアやバビロニアによって攻められて、滅亡に至ることが書かれています。列王記などを読むと、なぜ幾度も繰り返して、同じ過ちを犯してしまうのか、あきれたり、滑稽に思ったりするかもしれませんが、それこそが人間の悲劇的現実であることを聖書は示しているのです。ギリシア語の偶像礼拝と訳されたことばは、目に見えるかたち、すなわち像を拝むという語です。目に見えないお方である創造主にこそ、目を向けるべきなのに、周りの目に見えるものに心奪われ、信頼してしまう、それがこそが、悪い欲望の本質です。
神の怒りは来ている
これらの悪い欲望に対して、人間は罪人であるとか、弱い存在などと言い逃れをせずに、それらのものと戦って、殺してしまわなければならないのです。イエスは、別の表現でこう言われました。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです」(マタイ5:29〜30)。コロサイ書では、そうした神のさばきが不可避のものであることを、6節で「神の怒りが…下ります」と記しています。直訳すると、ここは「(神の怒りが)来る」という語です。日本語で「来る」と言えばまだ起こっていない未来に起こるような印象を与えますが、ここの「来る」は、もうすでに「来ている」ということで、待ったなしの状況であるとして警告しています。
2,古い人としての怒りや悪いことばと決別する(8〜11節)
怒りの感情とことばの問題
8節と9節では、怒りの感情と、ことばの問題が取り上げられています。「怒り、憤り、悪意、ののしり、…恥ずべきことば…偽り」と、5節のリストとはまた違う面から、人間の罪が取り扱われています。なぜ、怒りや憤りのことが書かれているのかを考えてみると、人間が抱く感情の喜怒哀楽の中で、その人の否定的な思いや暗い内面がもっとも映し出されるものが怒りや憤りだからでしょう。この怒りの感情が自分自身を傷つけ、多くの人々に被害をもたらします。ヤコブの手紙にも「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです」(ヤコブ1:19〜20)とあります。続けてここに挙げられているのは、「ののしり、…恥ずべきことば…偽り」と記されているとおり、ことばの問題です。人が語ることばの問題を、怒りの感情のことと、いっしょに挙げるのはふさわしいことだと思います。実にコロサイ書は、どのようにことばを語るべきかということについての言及が多く、私たちに注意を促しています。8節「あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい」、9節「互いに偽りを言ってはいけません」、16節「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」、17節「ことばであれ行いであれ」、4章6節「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」。これは何を語り、あるいは語らないかで、キリストのからだに与えられている愛の交わりが立ちもすれば、倒れもするからであり、私たちの宣教の証しが広がるか、萎むかも、そこにかかっているからです。動機が良いものであったとしても、自分の思ったことを他の人に対して口にする時、それは捨てるべきことばであるのかどうか、主のからだを建て上げることばなのかどうかを、少し考えてから語るように互いに努めましょう。
古い人と新しい人
パウロは、エペソ4章でも語っていますが、古い人と新しい人という比喩を使って、私たちの主に従う歩みを教えています。注目すべき特徴としては、それが衣服のように表現されていることです。私たちは古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。古い人とは、神の前に罪を犯し、堕落してしまった人間存在の象徴です。言わば堕落後のアダムです。そして新しい人とは荒野において悪魔の誘惑に屈することのなかった新しい人であるキリストのことです。滅びに向かう、腐敗した古い人を脱ぐことは、人間の力では無理なことでしょう。主ご自身の憐れみ深い御手により、古い人は脱ぎ捨てられ、新しい人を着ることができたのです。この新しい人は、決して古くなることのないもので、創造者である神のかたちに従って、日々「新しくされ続け」るものです。決して古びたり、破れて繕いが必要になることはありません。むしろ更新され続けて、やがて「真の知識」に至るように導かれています。それは更新される漸進的なきよめの道を辿るものです。