「イエスの言葉を行う者」

マタイ福音書 7:24-27

礼拝メッセージ 2019.6.9 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


譬えの内容

 この譬えには、2種類の人が登場し対照的に描かれています。まず、イエスの言葉を聴いてそれを実践する人が、岩の上に家を建てた賢い(感性の高い)人に譬えられます。この家が雨と洪水が家を襲われた時に、その家は流されずに建ち続けてます。次に登場するのは、イエスの言葉を聴いてはいるが、それを実践しない人である。この人は砂の上に家を建てる愚かな人(感性の低い人)に譬えられます。この家が雨と洪水に襲われた時に、その家は流されてしまいました。


譬えの意味

 この聖書箇所は神の裁きについて述べています(人生の試練についてではありません)。裁きは神の罰ではなく、神による私たちへの評価です。私たちの神との関係の中で、あるいは私たちの他の人々との関係の中で、キリスト者としてまた人間としてどのような生き方をしてきたのか、それを神が評価をし、神のみがそれを見せて私たちに知らせてくださるのです。その評価基準として示されているのが、イエスの言葉を聴くだけでなく、その言葉を行ったかどうか、であるとイエスは語ります。
 これは、イエスの言葉を逐一あれこれと取り上げて、自分の生活に適用することを意味はしていません。そのようなことをしても、私たちの人生を委縮させるに過ぎないでしょう。イエスの言葉を聴いて有難かったとすることで留まる生き方ではなく、イエスの言葉に重要な意味を見つけて、自分の人生や隣人の人生あるいはこの社会にそのイエスの言葉を浸透させていこうという生き方を選んでいくこと、そのような意味合いです。イエスを信じていると言いながら、それを実質的に棚に上げて、自分の思いをわがままに貫く人生ではありません。イエスの言葉(考え方)を自分の人生の基礎・基盤・土台とする生き方です。そんな人生が岩の上に家を建てた人に譬えられているのです。


イエスの言葉を行う

 教会には律法主義という言葉があります。律法主義とは、聖書に記されている命令・規則・勧告を忠実に言葉通りに守ることで、神からの救いを獲得しようとする態度であるとよく言われます。行いで神に認めてもらおうとする態度であるとも言われます。しかし、神への信頼(信仰)を信じつつも、律法主義になることはあります。律法主義とは、聖書の言葉(あるいはイエスの言葉)は神の言葉であるから守らなければならないとのみ考え、 聖書が記す命令や勧告の言葉の意味内容、神が守ろうとしている人々など全く考えずに.命令や勧告をひたすら守ることで(他者ではなく)自らの救いの保証を確認しようとする生き方です。守れないときは、自己嫌悪になるか他者に責任転嫁するかで自らを救おうとする不健全な結果に陥ります。


言葉の真意

 聖書の命令や勧告には、それぞれ定められた理由があります。あるいは、守るべき人や出来事や考え方があります。ここに注目しなければなりません。例えば、姦淫の禁止には、物として扱われることの多かった当時の女性たちを人間として守ろうという神の意志が反映しています。偽証の禁止は、無実の罪の人々を救うことにあります。偶像礼拝の禁止は、人間が神を利用することを戒め、人間を自己中心的な生き方から救い出す神の意志が込められています。実際に山上の説教の前半部では、イエスは律法を再解釈しながら、神の真の意図を解説しようとしています。イエスの言葉を聴きそれを実行するとは、イエスが大切にして守ろうとしたこと、あるいは推し進めようとしたことを私たちも賛同して生きていこうとすることです。イエスの言葉を聴くとは、そのイエスが持つ根本の考えを探り求めることです。その考えを自らの人生の指針とすることが、イエスの言葉を行うことです。
 説教の後に、イエスの語りの様子が記されています。律法学者のようでなく、権威ある者のように語ったとあります。権威ある者という解釈は難しいでしょう。しかし少なくとも言えることは、福音書の登場する律法学者は現実よりも聖書の言葉そのものにこだわった一方で、イエスは聴衆をはじめとする生きた社会にこだわりつつ神の言葉を語ったことです。イエスは律法を再解釈して、神の本来の意図を示しました。そこには神の言葉と現実とを結びつける神の力があります。イエスの考えを読み取り、そこに私たちの人生の土台を置きたいと思います。それは私・隣人・社会を神の意思に適った形へと変えることになります。