「愛と信仰」

ピレモンへの手紙 1ー8

礼拝メッセージ 2019.6.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


序 ピレモンへの手紙

「小さな宝石」

 前回まで、コロサイ人への手紙を見てきましたが、しばし中断して、ピレモンへの手紙を見ていきたいと思います。それは、コロサイ書が語る愛に生きることの実例を、この書がよく表しているからです。両書簡はほぼ同じ時期にパウロによって記されました。おそらくローマの獄中にいたパウロが、弟子ティキコをコロサイへ遣わして、逃亡奴隷で回心したオネシモを、彼の主人ピレモンのもとへ送り返すようにしたのです(コロサイ4:7〜9)。ピレモンへの手紙は、パウロの書いた手紙の中で最も短い書簡で、全部で25節しかありません。ある人は、この書を「パウロのポストカード」、「手のひら文書」と呼びました。パウロの書いた大書簡であるローマ人への手紙やコリント人への手紙などと比較すると、本当に短く感じます。しかしピレモン書に映し出されている信仰による人間ドラマは、私たちに多くのことを教えています。この書がパウロ書簡中の「珠玉の短編」、「小さな宝石」として、大切に読まれてきたことも分かるようになるでしょう。

「愛と赦しの手紙」

 なぜ、こんなに小さく、そして個人的な手紙が聖書に残されることになったのか、とても不思議なことです。これから見ていくことで明らかになると思いますが、この書が示していることは、キリスト者の愛と赦しです。富裕な人ピレモンのもとで、オネシモは奴隷として働いていました。ピレモンの家で何があったのかはわかりませんが、オネシモは何かの損害を与えて(金品を盗んだのか不明です)、逃亡してしまいました。直接に向かったかどうかはわかりませんが、オネシモは主人ピレモンを信仰に導いた人、そして今は獄中にいるパウロのところに、助けを求めたようです。パウロは獄中に訪ねてきたオネシモを諭して、悔い改めさせて、主を信じる信仰へと導きました。信仰によって生まれ変わったオネシモをパウロはかわいがり、信仰の成長を助け、オネシモもパウロの必要なお世話をしたようです。実の親子のように時を過ごしたと思います。しかし、法的にはこのままオネシモをパウロがとどめておくことはできませんでした。ローマの法律で、逃亡奴隷は主人のもとへ返さなくてはなりません。当時、奴隷には人権は認められていませんでしたから、主人を裏切った奴隷はどんなに厳しい罰が与えられても仕方がないというようなことでした。そこで、パウロは主人ピレモンにオネシモを、主の愛によって赦し、同時に主にある兄弟として受け入れるように嘆願の手紙を書いたのです。今回見る、この1〜7節には、ピレモンがどんな人物であったのかが書かれています。パウロは、ピレモンが今どのように歩んでいるのかを記すことを通して、ピレモンが立っているところの信仰の基盤を思い起こさせて、このあとの信仰のチャレンジと嘆願のことばにつなげていくのです。


1,主に救われ、主の働きに召されているピレモン(1〜3節)

 パウロは、差出人としての自分を、「キリスト・イエスの囚人」と書きました。「使徒」、「キリストのしもべ」と名乗ることはあっても、「囚人」と記している例はほかにありません。これは当時のパウロの状況をダイレクトに表していることばでした。それは、キリストを宣べ伝えて、そのため獄中に入れられていますということです。しかし同時に、「キリスト・イエスの囚人」ということは、この私はキリストに捕らえられた、囚われ人である、との思いもあったでしょう。同じ獄中書簡のピリピ人への手紙に「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(ピリピ3:12)と書いています。
 パウロがこれから訴えたいメッセージを考えると、主の囚人と記した意図がわかります。ピレモンよ、私パウロは、今、主の囚人であり、逃亡して来た奴隷オネシモと、立場の上では何も違いのない存在となっている。そしてあなたも、霊的に言えば、キリストに捕らえられて、主のものとされ、主のしもべにされたのではありませんか、ということでしょう。1節に「私たちの愛する同労者」の表現は、囚人となっていたパウロやテモテと同じ主の宣教に召され、導かれていることを示しています。2節の「姉妹アッピア」とは、ほとんどの注解者がこの女性をピレモンの妻ではないかと推測しています。特に、家から逃げ出した奴隷のことについて書かれていることから、主人ピレモンだけではなく、その妻にも読んで欲しくて宛先としたと考えれば、確かに筋が通ります。次の「戦友アルキポ」ですが、これをピレモンとアッピアの息子と考える人もいます。いずれにしても、ピレモンはこれらの挨拶のことばを通して、自分が「父なる神と、主イエス・キリスト」(3節)によって救われ、恵みと平安をいただき、主の働きのために召し出され、捕らえられて、今があることを心に留めたことでしょう。


2,主と聖徒に対して、愛と信仰を実践するピレモン(4〜7節)

 パウロは、挨拶のことばの後、すぐに「私は…感謝しています」と言います。ピレモンというひとりの主にある兄弟のために祈る時、パウロの心に思い浮かぶことは、彼の「主イエスに対する愛と信頼」でした。具体的なことはわかりませんが、ピレモンは自分の家を開放して、教会としていた訳ですから、集っていた人数はわかりませんが、豊かな富を持っていた人物だったのでしょう。その財力を自分の願望のために使うのではなく、主イエスにどうぞ用いてくださいと言って捧げていたのです。5節に「あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いている」とあります。注目すべきは、ピレモンの主に対する信仰は、同時に主の聖徒たちに対する愛の行いに結びついていたことが証しされていることです。
 ピレモンは主の愛を経験し、その愛を聖徒たちの間で実際に行いによって表していたのです。それが人々に喜びと感動を与えていたのです。パウロは、それを「聖徒たちが安心を得た」と表現しました。直訳すると「聖徒たちの心が安んじられている」となります。この「心」と訳されたことばは、ギリシア語でスプランクナで、人間のからだの「内臓」や「はらわた」を示しています。この語はこの書簡中3回使われています(7、12、20節)。主の恵みを受けて、それが人に向けられて実践される時、愛というものが、人の魂を感動で揺さぶり、その生き方を大きく変えてしまうものであることが、ここに現されています。