「愛の犠牲」

ピレモンへの手紙 17ー25

礼拝メッセージ 2019.6.30 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,執り成す人−パウロ(17節)

 この17節から文章表現が変わってきます。一つは、パウロが自分のことを指して、「私は…」ということばを多く使っています。17節「私を仲間の者だと想うなら、私を迎えるように…」とか、19節「私パウロが自分の手で、『私が償います』」などです。原文ギリシア語には、動詞そのものに何人称であるのかを表す語形が含まれているのですが、19節と20節では、強調するために、あえて人称代名詞のエゴ(私は)の語が使われています。このようなことから、この三番目の17節以降については、パウロの姿に注目して見ていくことにしましょう。
 それから17節以降の変化は、これまでのところでは使われていなかった、命令形の表現が散見されることです。17節以降に、命令形の文章は4つあります。一つ目は「(オネシモを)迎えてください」で、二つ目は「私に請求してください」、三つ目は「私を安心させてください」で、四つ目は「(宿を)用意してください」です。こうした文章の流れは、パウロが人との関係で、いかに心を配る人であったのかを教えてくれます。最初の1〜7節で宛先のピレモンの信仰の歩みを確認して感謝の思いを表します。この最初が肝心です。互いの関係を、この場合、信仰による関係をともに確認し、喜び、相手に感謝を伝えます。このことを飛ばして、自分の願いや言いたいことだけ伝える人は実際に交わりがうまくいきません。二番目に、パウロは8〜16節で依頼する内容を注意深く書いています。そこで依頼内容の中心であるオネシモのことについて、彼がどのように変わったのかを明確に記しています。しかし、ここでは命令形を使いませんでした。むしろ、ピレモンの信仰による愛の心に訴えました。しかし、第三番目の17節からは、具体的でストレートにパウロの思いを示すために、あえて命令形表現を使って、確証を得ておくようにピレモンに念を押したのでした。この手紙が届けられるときには、この書簡と一緒に旅をして来たオネシモがピレモンの目の前にいることになります。オネシモのその後の人生は、主人ピレモンの自由な決断と裁量に委ねられていました。そこでパウロは自分の顔が思い浮かぶような「『私は』表現」を連発し、語調を明確な命令形に変えて、懇願のことばが記されたのです。
 それにしても、「私を迎えるようにオネシモを迎えてください」とは、10節で「わが子オネシモ」と語り、12節で「彼は私の心そのものです」と合わせて、これ以上の推薦のことばが見当たらない文章です。キリストの愛によって一心同体に結び合わされた信仰の恵みに基づく執り成しのことばであったことに感動してしまいます。パウロが自らの体を張ってするような執り成しのあり方は、私たちの心を探るものです。執り成しの祈りにおける愛、あるいはひとりの魂を導く際の伝道の姿勢は、パウロのそれと比べて自分はどうなのかと思わずにいられません。


2,身代わりに背負う人−パウロ(18〜20節)

 18〜19節「もし彼があなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。私パウロが自分の手で、『私が償います』と書いています」。『新改訳2017』になって、カギ括弧付きで『私が償います』と訳されて、より印象的に、パウロの思いが伝えられています。オネシモが何か物品を盗んで、損害を与えたのか、それとも逃亡したというだけでも、その期間の労働力を奪ったことになって、損害を与えたことになるという意味であるのか、具体的なことはわかりません。けれども、パウロはピレモンが被った損害をオネシモの身代わりに引き受けることを、自らの手で書くことで、日本で云う署名捺印をして、確約を示したのでした。
 自分の負債ではなく、他の人の債務を引き受けるというのはふつうのことではありません。私は二つのことを思い出しました。一つは、良きサマリア人のたとえ(ルカ10:30〜37)です。24節でパウロのそばにいた同労者ルカによって記録されたイエスのたとえ話です。強盗に襲われ、半殺しにされて倒れているユダヤ人を通りがかりのサマリア人が傷の手当をした上、宿に連れて休ませ、主人にこう言いました。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』(ルカ10:35)。隣人を愛するとはどうすることなのかを主が語られたとおりにパウロが現実の生活の中で実践して見せてくれて、哀れなオネシモの良き隣人となったことを私たちは知るのです。
 もう一つのことは、この償いというのは、聖書が繰り返し伝えている、「贖い」ということを思い起こさせてくれます。ルツ記の終わりで、買い戻しの権利のある親類が、今は亡きエリメレクの土地を買い戻すには未亡人のモアブ人ルツを引き受けなければならないことを聞かされて尻込みします。そこでボアズがルツを引き受けて、買い戻し、すなわち贖いをするのです(ルツ4章)。これは私たちを贖い出してくださるために十字架に架かられたイエス・キリストに繋がる話です。
 わたしが支払います、償います、とパウロは云いましたが、パウロの念頭にあったのは、この私のために身代わりとなって十字架にかかって、贖いの代価を払ってくださったキリストのことでした。ピレモンへの手紙を最初からよく読んでみると、この文書が伝えたかったことは、究極的には、やはりキリストのことであったと言えます。25節しかない、この短い文書の中に、何度も彼が書いていた名前はキリストでした。キリストへの直接言及は、この書に少なくとも9回もあるのです。同じ時にパウロが書いたコロサイ人への手紙を読めば、パウロのキリストへの集中がどれほどであったかを確認できます。パウロがコロサイ書で語ったことは、「すべてキリストである」ということです。なぜなら、全被造物、この世界である「万物は…御子によって…御子にあって…御子のために…造られた」(コロサイ1:16)からなのです。


3,交わりに生きる人−パウロ(21〜25節)

 最後の20〜25節には、私を安心させて欲しいと述べ、宿の用意を依頼することばが続きます。そして、最後にパウロとともにいる信仰の仲間、同労者たちからの挨拶が記され、キリストの恵みを祈って手紙は閉じられています。宿の用意を頼んでいるところから、そのうちに現在の軟禁状態が解かれて、ピレモンがいるコロサイへ、パウロが訪問できる可能性を示しています。それは、パウロが信仰に基づいた交わりの大切さをよく知っていたからです。信仰は、神と私という垂直方向だけの世界ではなく、私とあなた、そして彼へと広がる水平方向の絆であるからです。