「新しい人を着る」

コロサイ人への手紙 3:12ー17

礼拝メッセージ 2019.7.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,あなたがたは、選ばれ、聖くされ、愛されている!

神に選ばれた者

 まず、新しい人を着ることができる前提、理由を確認したいと思います。それが、12節の最初です。「あなたがたは」つまり、私たちはすでに「神に選ばれた者」「聖なる者」「愛されている者」であるということです。この選ばれ、聖なるものとされ、愛されている、という三つは、キリストによって罪赦され、救われていることの三大確信と言って良いと思います。使徒ペテロはこのことを別の表現でこう書きました。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(Ⅰペテロ2:9)。
 神は、あなたを特別にご自分の民にしようと選ばれたのです。日本の宣教の現状では、今、教会に来られていることや、このメッセージをインターネットやCDで聞いておられることはかなり珍しいことになると思います。また、クリスチャンホームで育った方もおられますが、この異教社会の中で、主を信じる家庭に誕生する確率というのもかなりなレアケースと言えるでしょう。これは偶然でしょうか、それとも運命の気まぐれですか、いや、私は選ばれているとしか言えないと思っています。神が、あなたが良いと思って選ばれ、あなたを神の子どもとして予め定めておられたのです。

聖なる者

 神は、あなたを聖なる者とされました。私たちは誰でも、いろいろな失敗をして、神の御前には、罪を犯し、汚れている存在との意識が強いと思います。けれども、新約聖書が明らかに示していることは、キリストの十字架によって、もう聖くされているという霊的真実です。聖であるということは、神によって罪赦され、受け入れられ、神のご目的のために、特別に働きや任務が与えられているということです。役割や使命があるのです。

愛されている者

 神は、あなたを愛しておられます。愛されているということは、喜んで生きていける場所が確保されており、あなたは生きなければならないではなく、あなたは生きて良い、自分を決して粗末にせず、自分を大切にして、喜び、楽しんで、生き生きとあなたらしく歩みなさい、というメッセージです。愛を注いでいる方の関心と喜びは、その人が喜びをもって、生き生きと生きて欲しいということです。そういう神からの恵みを大前提として、パウロは言うのです。あなたがたは、新しい人を着なさい、と。


2,あなたがたは、新しい人を着なさい!

聖書の中の着物やその比喩表現

 12〜15節から明らかなことは、新しい人を着るということは、他の人との関係性の中で現れるものであることが記されていることです。例えば12節で「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容」とありますが、これは新しい人を着ることが個人の能力の向上や知識や技能の習熟を約束するものではないということです。他の人との関係や交わりの中において、新しい人を着ている者の特質が現されていく、あるいは発揮されていくべきものです。
 現代では、衣服というものは、おしゃれのためのものであったり、少し古くなったり、傷んできたりすると捨ててしまうようなものとして意識されているかもしれませんが、聖書に記されている衣服についての記述を見ると、それが価値ある、財産のようなものであり、さらにいろいろな人生においての象徴的意味合いを含んだものとして登場しています。
 例えば、創世記ヨセフの話で、奴隷から宰相になるときの場面では、ポティファルの妻による虚偽によって、奴隷ヨセフの衣服はちぎり取られて証拠とされ、牢屋に入れられてしまいます。けれどもヨセフは夢の解き明かしによって牢から出されて、宰相の地位に一気に引き上げられました。その時、囚人の薄汚れた服装から、地上権力の最上のものを与えられたことを象徴するきらびやかな衣装に変えられました。
 イエスのたとえ話で、王が王子の披露宴を催し、予定していた招待した者たちが来ようとしなかったので、大通りにいる人々を皆招くようにします。ところが宴が始まると、ひとり婚礼の礼服を着ていない者が見つかります。その者は手足を縛られて暗闇に放り出されてしまいます(マタイ22:1〜14)。 放蕩息子のたとえ話でも、放蕩三昧で身を持ち崩し、哀れな身なりで帰って来た弟のほうの息子に、父は彼を喜んで受け入れて赦し、穢い服を脱がせて、立派な衣服に着せ変えさせます(ルカ15:11〜32)。
 そしてパウロ自身、度々、書簡の中で、「(衣服を)着る」という表現で、信仰と信仰を持った者の劇的な歩みの変化について述べています。聖書箇所を挙げると、ローマ13:11〜14、ガラテヤ3:26〜27、エペソ4:22〜24などです。たくさんありますので、ローマとガラテヤの箇所の一部分だけを引用します。「主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。」(ローマ13:14)、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)。

新しい人を着るという意味

 これらの箇所とコロサイ人への手紙が語る、新しい人を着ることについて読むとわかることは、古い人から新しい人になれ、とは一言も言われていないことです。私たち自身が新しい別人にチェンジするのではなく、新しい人であるキリストを着るように言われています。深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容という行いの実践を服のように着るということです。でも、それは時々新しい人を着て、良い行いをして、そして疲れたら古い人に着替えるというようなものではありません。新しい人である主イエスを着たのだったら、もうそれを着たまま生きなさいということです。もうそれを脱いだり着替えたりする必要はありません。それは古びたり、汚れることもなく、常に新しくあり続ける着物です。私たちがここに書かれていることば通りに、慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容を示し、互いに忍耐して赦し合い、キリストの平和に支配され続けていくという行いをしていくことが、新しい人を着ることなのです。新しい人を着て歩んでいく中で、その着物は自分に最もフィットするものであることに気づくはずです。それは主イエス・キリストという最高のコスチュームなのですから。