「家庭と社会で主に仕える」

コロサイ人への手紙 3:18ー4:1

礼拝メッセージ 2019.7.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,キリスト者の家庭訓

 3章18節から4章1節まではいわゆる「家庭訓」(家庭の教え)が記されています。夫婦、親子、奴隷と主人、それぞれの関係の中で、キリスト者としてどう生きるのかが書かれています。キリストを信じて、キリストを中心に歩むというこの信仰が、実際どんな生き方をするように教えているのか、当時、キリスト教はまだまだ知られていないマイナーな存在で、ユダヤ教の一派のように思われていた時代でしたから、周りから警戒心を持って見られていました。この新奇な教えがいかなるものであるのかと。木はその実によってはかられます(マタイ7:20)。そういう意味では、こうした家庭訓は、信仰の目に見える実質部分を示す、大切なことばです。


2,キリスト者の家庭訓の土台

 ただ、18節からの命令のことばは、ここだけを読んで理解しようとすると誤解が生じます。これは並行箇所として知られる、エペソ人への手紙5章21節から6章9節においても言えることですが、その箇所から前の記述に遡って、みことばを確認する必要があります。エペソのほうでは、5章18節に記された「御霊に満たされなさい」という命令を前提にして、妻たち、夫たち、子どもたち、奴隷や主人たちへの命令が意味あるものとなっていました。家庭における具体的命令だけを見て、その前提となる根本の福音理解が抜けているとしたら、それは単なる道徳律のように、人を戒めで縛るだけのものになってしまいます。
 エペソ書では「御霊に満たされよ」でしたが、コロサイ書のほうではどの箇所まで遡って見ていくべきでしょうか。直接には、3章15節の「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と、3章16節の「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」を基盤にして読むことが必要です。そしてさらに広い文脈から見ていくと、前回確認しましたように、それは「新しい人を着る」(3:10,12)生き方であることがわかります。新しい人を着て、妻も夫も子どもも奴隷も主人も生きるのです。そしてさらに言えば、新しい人を着るということが何を意味するのかと言うと、それは私たちが「キリストとともに死んで」(2:20)、「キリストとともによみがえらされ」(3:1)、将来において「キリストとともに栄光のうちに現れる」(3:4)というところに私たちがみな立っていることです。別の表現で言えば、私たちは、キリストの十字架と復活と再臨とに、ともにあずかっている存在であるということです。


3,キリストの平和が支配するように!

 それでは3章18節以降をよく理解するために、15節と16節がどのような意味であるのかを確認しましょう。まず、15節「キリストの平和が、…支配するように」との命令です。「キリストの平和」ですが、二つの意味が含まれていると思います。一つは「平安」ということです。「平和」というギリシア語エイレーネは、平和とも平安とも訳せます。イエスはご復活後、迫害を恐れて鍵を締めて閉じこもっていた弟子たちに現れて「平安があなたがたにあるように」と言われました。「キリストの平和」は恐れや不安の中にある人たちに喜びと希望を与えます。夫婦関係において、妻は恐れなく夫に従える、夫も喜んで妻を愛せる力を、キリストの平和は生み出します。キリストの平和が支配する家庭において、子どもが育っていく。奴隷と主人との関係も、互いにこの平安が内にあれば、理解と思いやりをもった関係が生まれます。
 もう一つのことは、キリストの平和はあらゆる敵意を廃棄させるものであることです。エペソ人への手紙にこう記されています。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」(エペソ2:14〜16)。「キリストの平和が…支配するように」の「支配する」は、審判者として審判するということばが使われています。キリストの平和が審判人となる、つまり夫婦、親子、主人と奴隷、これらすべての人間関係において、あらゆる争い、敵意をキリストに打ち砕いていただくのです。


4,キリストのことばを豊かに住まわせよ!

 15節の「キリストの平和」と並列に置かれているのが16節の「キリストのことば」です。「キリストのことばが、…豊かに住むようにしなさい」と書いています。キリストのことばを私たちの内に住まわせるとはどういう意味でしょうか。以前私はこれはキリストのことばとしてのみことばを心に暗記して蓄えることと思っていました。もちろん、完全に間違っている理解とは言えませんが、そういう聖書のことばを頭に詰め込む、あるいは何か立派な神学や教理に精通するというようなことではおそらくないと思います。というのは、このことばのあとに続く、「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、…。」と書いてあるからです。実際、互いに教え、忠告し合えるような人間関係は、みことばの知識が増えるだけで生じるような単純なものではありません。みことばを知的に学ぶことはもちろん大切なことです。でもそれだけではありません。
 それでは、キリストのことばとは一体何であるのかと言うと、聖書やキリストが発せられたことばというよりも、キリストのご人格と御業そのものを表してると理解できます。十字架によってその頂点が示されたキリストの私たちに対する深い愛、その御心、御思いに、私たちの心が満たされて歩むということが、キリストのことばを豊かに宿らせることなのです。12節のリストに戻ると、「深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容」とあります。キリストの愛と恵みを心深く、いつも覚えていなければ、どうして、互いに教えたり、忠告し合えたり、互いにへりくだって従い合えるような、深い人間関係に到れるでしょうか。キリストのことばを豊かに住まわせるというのは、どのような人間関係においても、独善的な押しつけ的生き方に終止符を打ち、むしろキリストの愛の心、思いやりと寛容をもって、その人を受けとめ、愛していくという生き方を生み出していくものなのです。