「神の選びとご計画」

創世記 25:19ー26

礼拝メッセージ 2019.9.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神の祝福の約束はどうなったのか?

アブラハムーイサクーヤコブ

 アブラハムは、異教社会である中で育ち、人生の途上で主なる神からの呼びかけを受けて、主に従う人となりました。彼は神からの祝福の約束を与えられ、一族を引き連れての大いなる信仰の冒険の旅を歩み続けました。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:2〜3)の約束のことばを信じて歩み続けました。
 一方、今日から見る、ヤコブはアブラハムの孫です。アブラハムが信仰をもって長く待ち続けて、不可能と思われる状態で、神は彼の妻サラとの間にイサクを与えられました。そしてそのイサクに妻リベカによって生まれたのがヤコブです。今日から見るこのヤコブの物語は、神がアブラハムに与えられた祝福の約束がその後どうなったのかを明らかにしています。

約束の継承の危機

 19〜20節を見ましょう。「これはアブラハムの子イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻に迎えたときは、四十歳であった」。当時の結婚事情はわかりませんがイサクは晩婚であったのかもしれません。そして21節に「イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである」と書いています。どういうわけか自分の親と同じ危機と試練にイサクも直面していました。そのあとすぐに「主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった」と書いているので、祈ってすぐに答えられたかのように見えますが、そうではありませんでした。26節で「イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった」と記されています。古代の族長社会において、跡取りがいかに大切であったかは、アブラハムのことを学んだときにすでに見てきました。しかも、アブラハム、イサクの場合、単に家督を継ぐ跡取りということではありません。神が語られた祝福の約束がどうなるのか、自分の代で終わってしまうのなら、まだ成就していないことになる。父アブラハムから受け継いだはずの神の約束はどうなるのかという不安をイサクは二十年近くも待たされ、信仰が練られたのでした。

神の祝福の歴史—トールドース

 この箇所が明らかにしているように、アブラハムに対して語られ、次いでイサクに対して示された神の祝福の約束は途切れることなく、次の継承者にバトンタッチされていきました。25章19節は「これはアブラハムの子イサクの歴史」であると書いて始まっています。この「歴史」と訳されたヘブライ語のトールドースは、「経緯」や「系図」とも訳され、創世記全体の構成を導くことばです(2:4、5:1、6:9、10:1、11:10、27、25:12、36:1、9、37:2)。実質的に25章19節以降はイサクではなく、ヤコブの物語が展開していきます(11:27、37:2も同様)。これらアブラハムの話以降の内容を見ていくと、神が族長たちに現れて、祝福の約束を与えて更新されていったことを考えると、イサクにしてもヤコブにしてもその父親としての存在が背後に隠れていても、約束の継承という点でそれがその後どうなったのかを明らかにするために、このような表現となっているのではないかと思います。したがって、このトールドースは、神の祝福の約束がどんなに長い歳月が流れようとも、どんなに時代が移り変わろうとも、決して消滅することも途切れることもなく続いており、神のご計画として進んでいることを証ししているのではないでしょうか。
 マタイの福音書1章1節に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書かれていますが、この「系図」(ギリシア語では、ビブロス・ゲネセオース)とは、実はヘブライ語で言えばトールドースなのです(七十人訳聖書の創世記2:4、5:1を参照)。アブラハムへの約束は、イサク、ヤコブと継がれ、やがてダビデに至り、そして今や主キリストを通して私たちに与えられています。神の祝福の約束はどうなったのか?それは今、ここに、キリストのからだの私たちに接ぎ木されて、更新され継続されているのです。


2,神の祝福の約束を誰が継承したのか?

どうして私の身にこんなことが?

 アブラハムのときもそうでしたが、神の祝福の約束を継承していく中に、人々はさまざまな葛藤や困惑を経験することになりました。約束の継承者をお腹に宿したリベカに、神からこうお告げがありました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える」(23節)。リベカの胎には双子が宿っていましたが、その双子が胎内でぶつかり合っていたのでした。リベカのことばは印象的です。「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」。言い換えると「どうして私の身にこんなことが起こるのか!」です。人生の苦難の中で、誰もが発する普遍的な問いです。「いったい、どうして?」、「いったいどうなるの?」、リベカは不安や恐れの心でいっぱいになりました。リベカにもイサクにもこの双子の誕生はさまざまな困惑と苦悩を与えていくことになります。そして祝福の約束を受け継ぐように選ばれたヤコブは、胎内の中でそうであったように、人々とぶつかり合って、競い争う生涯を送ります。神の祝福の約束は、信仰者を安楽椅子に座らせるためのものではありませんでした。祝福の受領者としてその人がふさわしい者となるよう、神は人間の期待や思いをはるかに越える導きをなさるのです。あなたは選ばれたのです。

なぜヤコブなのか?

 神の約束の継承者と言えば、おとなしく、敬虔で、純朴なイメージを持ちますが、ヤコブはそれとはまったく逆で、自我が強く、常に固執する人で、貪欲で、策略家でした。彼は争いの人であり、兄エサウと競い、伯父ラバンと闘い、最後には神と格闘しました。ここに聖書が生々しいほどにリアリティーに溢れたものであることがわかると思います。そして、この争いの中に生涯を送り、人間的には神の祝福から退けられても不思議ではないようなこの人を、神はお選びなったことをみことばは語ります(参照;ローマ9:10〜13)。ヤコブの選びは、神が知恵ある者ではなく、愚かな者を、強い者ではなく、弱い者を選ばれたことを示しているのです(参照;Ⅰコリント1:26〜28)。