「わざによる信」

ヨハネ福音書 10:22-39

礼拝メッセージ 2019.9.8 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


ユダヤ人たちの求め

 イエスを巡って論争が続きます。ユダヤたちは、イエスがキリスト(メシア)であるならば、それを明言して欲しいと迫ります。ただ問題は、ここでのユダヤ人たちのメシア観です。当時の多くの人々のメシアの期待は、ローマから独立したユダヤ人の国を建てる人物の事でした。もしそうならば、イエスは自らをキリスト(メシア)として紹介するわけにはいきませんでした。イエスの考える救いは、そのような独立運動の行動ではなかったからです。


ユダヤ人たちの迫害

 イエスの応答は、父なる神とイエスご自身との繋がりを訴えることでした。しかし、イエスを最初から疑い、その言葉に聴こうとしないユダヤ人たちは、イエスを冒涜者として石打ちの刑に処するように画策します。イエスは詩編62の言葉で反論し、自らを神から遣わされた者として人々に示そうとします。


わざによる証し

 イエスは言葉の宣教だけでなく、神の考えを実現するための業を行いました。イエスを信じないのならば、せめて神の業を信じるように皮肉交じりにイエスは語りかけます。旧約聖書に啓示されている神の考え方に基づいてイエスが業を行っているとするならば、それは神の業そのものです。イエスが行った苦しむ人々への救いの業は、神の意思に適うことでした。それを見ることで人々は信頼へと導かれるのです。


わざと信

 何かを行うこと(行為)と神に信頼すること(信仰)との関係は難しいものです。新約聖書自身が、信(信頼・信仰)によって救われると言いつつ、行いのない神への信頼(信仰)は死んでいるとも言います。まず考えておかねばならないことは、神と人間とのあるべき関係を聖書は最初から最後まで信頼に置いていることです。取引とか、功績とか、一方的な服従や隷属ではありません。例えば、人間が神の基準に達したから神は人間と関わりを持つとするならば、それは信頼関係ではないでしょう。それはただ単にテストにパスしたということにしかなりません。神は律法や様々な命令で基準を示していると言えますが、それは人間をテストするためではなく、神を信じる人間のあり方を具体的に示すためです。だからこそ、神の命令である律法は①神を愛すること ②隣人を愛することであるとイエスは語ります。次のような考えがあります。人間が律法に達することができないので、イエスが代わってそれを達成して下さったのであり、そのイエスを信じることで神の基準が満たされるという考えです。しかし、この考え方は肝心の信頼を忘れてしまっています。
 同時に、人間が神を信頼することとは、その神の価値観が最も私たちにとって大切であり、それに従うことを意味します。それが人間の神への立場であり、神が人間に従うのではありません。他の人々を大切にするならば、その人々の必要を満たすように何かをするでしょう。それが信頼と業の関係の第一の意味です。そして忠実な継続的な業は互いの信頼関係を新たに醸造します。これが信頼と業の関係の第二の意味です。神が人を救うという意思を持って業をしようとするならば、人がその意思に従って業を行うことに繋がっていきます。それは、救いを必要とする人のためであり、ひいては神と人間との信頼関係、人間同士の信頼関係へと導かれることになります。信頼関係は神への服従を通して業となり、神に従う業は信頼関係を指し示すことになります。業の功績によらず、また業を否定せず、神との信頼関係を築き、維持したいのです。