「本当に大切なこと」

創世記 25:27ー34

礼拝メッセージ 2019.9.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,現代の私たちに語りかけるヤコブ物語

 旧約学者W・ブルッゲマンがユニークな考察をしています。「このテキストの解釈は、我々の時代の「第三世代」に属する人々と即座に関係する。ヤコブは、穏やかに確固とした信仰を持った第一世代であるアブラハムのような人ではない。あるいは彼は、印象深い、富裕な生を送った第二世代のイサクのようなものでもない。これら二人に比して、この第三世代に生まれた男は、その一生を争いと揉めごとの中で生きている。自分たちの生が争いごとの中にあることを見出す人々、祝福を確保したいと切望している、あるいはそのために見て見ぬ振りさえする人々、大きな変化が起こることを待ちながらしかしそれを非常に恐れている人々、地上においても天に対しても戦いに直面していると見える人々、そういう人々にとってヤコブは引きつけるものを持っており、また贈り物を持っている。」(『現代聖書註解 創世記』向井考史訳 日本基督教団出版局)。現代という複雑な社会で生きる私たちや、信仰において、あるいは何らかの意味で自分が、ブルッゲマンの言う「第三世代」に属していると自認する人には、ヤコブの物語は本当に大きなインパクトを持って迫って来るでしょう。


2,長子の権利とは何か

 本日の聖書箇所では、エサウとヤコブとの間に、長子の権利を巡ってこれから起こる衝突の前段階のことが語られています。実際に、ヤコブがエサウから長子の権利による祝福を奪い取る前に、二人の間に起こっていたことが記されています。まず、長子の権利が何であるのかを確認しておきたいと思います。長子の権利には三つの要素があります。一つは、長子の権利を持つ者が一族のかしらとなることを意味していました。長子は一族の代表者で、一切の権限を有していて、一族を守る責任を持っている者でした。二つ目に、族長の財産から最も多くの物を相続する権利を有していました(参照;申命記21:17)。三つ目に、一族の霊的なかしらとなりました。一族の祭司として、神の御前でとりなし、家族の霊的な面での責任を持ち、彼らの霊的成長のために労する者でした。もちろん、アブラハム以降の族長の場合は、神からの祝福の約束を継承するという重要な役割がありました。こうした長子の権利の持つことの意義を知ると、どうしてエサウが空腹を満たすために、そんな大事なものを簡単に明け渡してしまったのかが不思議に思えます。また、この聖書箇所がすべての人たちに語っている真のメッセージとは何でしょうか。


3,エサウのように…俗悪な者にならないように

 おそらく、エサウとヤコブの話において聖書が示していることには二面性があると思います。一つは、前回もお話したように、ヤコブという人の自我の強さや狡猾さにもかかわらず、神がそのご計画の中に彼を加え、祝福を与えられたというところです。そしてもう一つは、そのプロセスや手段は肯定できないとしても、ヤコブの中に見られる、神と神の約束に対するまっすぐな方向性です。対照的にエサウにはその視点がまったく欠如しているように見えます。今日の聖書箇所ではその後者の点を見ていくこととしましょう。J・M・ボイス師が書いていたことですが、エサウという人は、神の約束を受けたアブラハムの孫であり、ヤコブと同様に、イサクとリベカから生まれた人です。ですからエサウという人は信仰の世界で言うと外の人ではなかったし、今で言えば、異教徒でもなかったということになります。したがって、エサウの判断や生き方に対する警告は、直接に今のキリスト者に向けられていると言えます。その警告とはヘブル人への手紙12章15〜17節です。「だれも神の恵みから落ちないように、…気をつけなさい。また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流し求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした」。


4,今か、永遠か

 創世記25章34節に「こうしてエサウは長子の権利を侮った」と記されています。空腹で死にそうに感じたとしても、ヤコブの誘いが巧妙であったとしても、それでもエサウは長子の権利を手放すべきではありませんでした。その取った行動は、神の祝福を軽んじ、侮ってしまう結果となりました。エサウ的な生き方か、ヤコブ的な歩みかを問う際に、私が感じたことですが、もしかすると自分の中には、エサウ的なところと、ヤコブ的な部分の両方が住んでいて、リベカの胎の中のように、この両者が激しくぶつかり合っているのかもしれません。そこで長子の権利についての問題は、次のような対立としてとらえることができるでしょう。第一に、今か、それとも永遠か、ということです。これはどういう尺度や視点をもって生きるかということです。エサウにとっては、狩りから帰って疲れているという、今という現実がすべてでした。エサウはヤコブに言いました。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ」(30節)。エサウは今の空腹を満たすために、将来も続き、さらには永遠につながっていく恵みを放棄してしまったのです。この「その赤いのを、そこの赤い物を」という「赤い物」は、脚注にあるように、ヘブライ語ではアドムということばです。エサウはその後、エドム人の先祖となりましたが、今、目に見えている「赤い物」に惹かれて、本当に大切なものを手放してしまったのでした。


5,自分の願望か、神のみことばか

 第二に、自分の欲求か、それとも神のみことばか、ということです。これは今か、永遠かという対立と重なることですが、自分の欲していることや願望は、ときに神のみこころに沿っておらず、むしろ真反対のことがあります。32節のエサウのことばは印象的です。「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」。これは私たちの周りから、あるいは内なる誘いの声として聞こえるものではないでしょうか。信仰?教会生活?聖書?それが何になるのか?何か意味があるのか?大いなる挑戦のことばです。ヤコブは常に争いの人、戦いの人でしたが、これらの物語を通して、私たちも信仰の歩みには避けられない戦いがあるという現実を示されます。エサウ的生か、ヤコブ的生か、神の御前に本当に大切なことを選び取ろうではありませんか。