「後悔しない生き方」

創世記 27:30ー45

礼拝メッセージ 2019.9.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,不条理に怒る人—エサウ

競争に負けたエサウ

 祝福をめぐるヤコブとエサウの話は、神のご計画や選びの観点から見ることが大切ですが、今回は、特にエサウの側からの視点で考えてみたいと思います。30節から記されているイサクとエサウとのやりとりを見ると、彼らの何ともやり切れない思いが伝わってきます。エサウは、ヤコブに祝福を奪い取られたことを知って、泣き叫びました。34節の「声の限りに激しく泣き叫び」と訳されていますが、原文通りに記すと「彼は大きくたいへん苦い叫びを叫んだ」となっています。それは「悲痛な叫び」(新共同訳)、「激しくも痛ましい叫び」(月本昭男訳)だったのでしょう。30節を見ると「イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父イサクの前から出て行くとすぐに、兄のエサウが猟から戻って来た」と書かれていて、時間的にはわずかな差であったかのように記されています。ヤコブのほうは家にいたものを持って来て、リベカに調理してもらって、完全にズルをしたわけなので、早いのは当たり前でした。でも、30節以降の話を見ていくと、エサウが祝福を勝ち取る競争に負けてしまった人として描かれています。ヤコブとエサウは双子の兄弟で、彼らの姿かたちは非常に似ていたでしょう。エサウのほうが毛深いということがもしなかったら、二人の見分けはつかなかったかもしれません。
 外見や体力、そして性格などの内面などで、エサウは劣り、ヤコブが優れていたと、人間的に見て言えるかというと、それはむずかしいところです。けれども、結果はヤコブが祝福を獲得し、エサウは得られなかったのです。エサウは、どうして自分が負けたのか、納得できなかったでしょうし、なんとも腹立たしく、悔しい思いを持ったと思います。しかもヤコブは、父イサクを騙すような不正行為をして、祝福を得たのです。父から言われたとおりにまじめに猟に行って獲物を仕留めて、自分の手で調理までしたこの私エサウが、なぜ損をしなくてはならないのかという気持ちです。まさに正直者が馬鹿を見るです。

憎しみ怒るエサウ

 当然のことでしょうが、36節のエサウのことばや41節からの記事で、エサウが激しく怒り、ヤコブに対して憎悪の念を燃やしたことがわかります。41節「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう」は彼の中で芽生えた恐ろしい殺意が表されています。聖書には、兄弟間の苛立ちや憎しみの例がいくつも出て来ます。遡れば、カインとアベルの話がありました。カインとアベルがそれぞれ神の前にささげ物を持って来るのですが、主はアベルのものに目を留めて、カインのささげ物には目を留められなかったのでした。それでカインは激しく怒り、ついには弟を殺しました。また、次にヤコブから生まれて来る子どもたちの間にも同様なことが起こります。上の兄弟たちがヨセフを妬み、怒りを燃やして、彼を地面の穴の中に投げ込んで殺そうとしました。最終的には奴隷として売り飛ばしてしまいました。イエスが語られた「放蕩息子のたとえ」でも兄と弟の対立構造が見えます。殺すところまではいきませんが、放蕩三昧して身を持ち崩して帰って来た弟を、赦して受け入れ、迎え入れた父に兄は不満をもらし、弟に対する妬みや恨みを持つことが書かれています。いずれにしましても、エサウが持った怒りは、納得のできない不条理に対するものだったでしょう。どうして私ではなく、ヤコブなのだという、まったく答えの見えないものでした。


2,不条理に怒る人への勧め

怒っても、罪を犯すな

 現代の私たちも人生の歩みの中で受けて来たいろいろな経験の中で、親や兄弟、そして自分と関わりのあった周りの人たちに対して、広くこの社会に対して、怒りの気持ちを持っていることがあるかもしれません。信仰者であっても過去の心の傷に影響を受けていることがあります。また、信仰を持っている場合、神に対しての「なぜ?」という、やり場のない怒りを持つこともあるのではないでしょうか。石川啄木の詩を思い出します。「やり場にこまる拳もて、お前は誰を打つか。友をか、おのれをか、それとも又罪のない傍らの柱をか」。
 しかし、そのような怒りを抱いているならば、それを主に告白して、いえ、主にぶつけて、癒やしていただく必要があります。創世記4章で主がカインに告げられたみことばを見ましょう。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない」。J.スタインベックの小説『エデンの東』の中で語られたことです。「あなたはそれを治めなければならない」を欽定訳聖書が「あなたはそれを治めるであろう」(Thou shalt)とし、カインが罪に打ち勝つことになるという約束に訳していますが、米国標準訳聖書は「あなたはそれを治めなければならない」(Do thou rule over him)と命令になっていることでした。 ジューイッシュ・バイブルには「あなたはそれを治めることができる」と訳していました。私もこのことばについてはそれが可能であるという意味での、神から人への期待として理解しています。
 「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」(エペソ4:26)。確かに怒りの感情を抱くこと自体を避けることはできません。しかし、怒ったからと言って、罪を犯しても良いということにはならないのです。怒りの感情は、祈りの中で主にすべてを伝えて解決し、処理するようにしましょう。

悔い改めの機会を逃すな

 エサウの話について、ヘブル人への手紙は次のように警告しています。「あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」(ヘブル12:17)。エサウには悔い改めの機会が残っていなかったと書いています。ヘブル人への手紙からの勧めは明白です。悔い改めて、主に立ち返るときを、祝福を受け取れるチャンスを決して逃してはならないということです。イザヤ書もこう記しています。「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。」(イザヤ55:6)。生きている限り、機会は残されていますが、後回しにしている間に、本当に大切なことを失ってしまう危険があるのです。