「わたしは決してあなたを捨てない」

創世記 28:10ー22

礼拝メッセージ 2019.10.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,わたしはあなたとともにいて、あなたを守る

石を枕にして眠るヤコブ

 晋の孫楚が 「石に枕し流れに漱ぐ」を「石に漱ぎ流れに枕す」 と言ってしまったことをこじつけて誤りを認めなかったという故事(意味は負け惜しみの強いこと)があり、これが夏目漱石の号の由来になっていますが、中国では石を枕にして休み、川の流 れに口を潤すことは、自然の中で悠々とした生活を示すようで、否定的なものではなかったようです。しかし、本日の聖書箇所に おいてはたぶんそうではありません。岩や石がゴロゴロと転がっているような乾燥地帯の道を旅していた若者ヤコブが、日が傾き始めたので野宿し、石を枕にして休みました。「石を枕に」とは、侘しさを感じさせ、暗く寂しい光景であったに違いありません。豪華客船タイタニック号が沈みゆく船上でバンドが演奏したことで有名な新聖歌510番(讃美歌320番)の『主よ御許に』の歌詞に、「さすらう間に 日は暮れ 石の上に 仮寝の 夢に もなお 天を望み 主よ 御許に近づかん」 と歌われています。
 求め続けていた祝福を奪っていながら、それを喜ぶこともでき ず、住み慣れた家から遠く離れて、いつ帰って来られるかもわからないヤコブでした。彼はベエル・シェバから、あとでベテルと名付けられることになる「この場所」まで約90キロの道のりを旅して来たのです。伯父ラバンのいるパダン・アラムは遥か先であり、荒涼とした何もないこの場所で、ヤコプは人生の孤独と虚しさを感じていたと思います。

ヤコブに現れる神

 しかし、そのような不安と恐れを感じるただ中において、石を枕にして横たわったヤコブに、全能の神は夢の中で現れてくださ いました。ヤコブの全生涯において、最も重要な二大経験の一つがこの場所で起こりました。二大経験とは、このベテルでの体験と、ペヌエルでの体験(32:22~32)です。聖書が明らか にしていることは、このように寄る辺なき者に神は現れてくださり、御声をかけて、約束のみことばを与えてくださるということ です。神はあなたを見ておられます。ヤコブのようにずるくて、人との関係が壊れているような人であったとしてもです。ヤコブ にとってもそれは全く予期せぬ出会いでした。
 15節のことばは、復活されたイエスが弟子たちに語られたみことばを想起させます。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)。「見よ、わ たしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守」ると言われるヤコブヘのことばは、それを受け取りたいと願うすべての人に与えられている神の約束です。


2,わたしはこの地をあなたに与える

「その場所」

 11節をご覧ください。「彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった」。ここで「場所」(ヘブル語でマコーム)という語が3回も使われ、強調されていることがわかります。しかも3つとも原語では冠詞付きになっていて、ある決まった、特定の場所を指し示していて、わかりやすく表現するとしたら「あの場所」と訳すことができます。
 19節で「そしてその場所の名をベテルと呼んだ」と書いているとおり、ベテルはこのあと聖所が置かれる場所になっていきまし た。ベテルとは神の家という意味です(ベトは「家」、エルは 「神」)。
 日が沈んできたので、そこにたまたま野宿することになった、何の変哲もない場所です。美しさも見惚れるような所も一つもない、ただごつごつした岩が転がり、土埃の立つような荒涼とした場所です。しかしその場所で神がヤコブに現れてくださったのです。そこに天に届く階段(はしご)がかけられ、御使いたちがそこを上り下りしています。この時から「その場所」は、旅の単なる通過ポイントでなくなり、神との決定的な出会いの場所となりました。「その場所」は、地名がルズでなくなり、ベテルすなわち神の家になりました。神と出会い、神から約束のみことばを聞く場所となり、その約束を受けた者たちが礼拝を捧げる場所となったのです。

「神の家」(ベテル)となる場所

 ヤコブが枕にした石は、たぶん大きな石だったと思われますが、それはたいせつな神の契約の記念碑に変わりました。神はどこに でも遍くおられるお方であると同時に「この場所」という特定の 所において崇められ、礼拝をお受けになられます。神と出会える 場所、神からのみことばを聞く場所、神への礼拝を捧げる場所として、「神の家」である教会というものの原型がここにあります。それゆえ神はご自分を指して「わたしは、あのベテルの神だ」(創世記31:13)と言われます。そしてこれから後に神はヤコブにこう命じられました。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」(35:1)。教会という「場所」は、神が備えられた大切な空間です。神が人と出会われ るとき、神は具体的な特定の場所を用いられるのです。教会の存在意義や使命はそこにあるのです。


3,地のすぺての部族はあなたによって祝福される

 12節「見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りし ていた」。この「はしご」と訳された語は、「階段」のようなものをイメージしたほうが良いでしょう。四角い土台を大きい順に積み重ねたようなジグラット(高塔神殿)と呼ばれる建物にあった下からてっぺんに直接つながる階段のようなものであろうと聖書学者は言っています。イエスがこの創世記の記事を踏まえて、こう語られました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」(ヨハネ1:51)。
 ヤコブが夢で見た天と地上をつなぐ階段は、彼の狭い考えや世界観を打ち破るものでした。天と地との間に往来があり、コミュニケーションが図られます。今や、神の御子イエス・キリストを通して、天につながる道が与えられました。私たちの宣教は、天と地上をつなぐ階段としての役割を担うように導かれているのです。