「人生の訓練学校」

創世記 29:1ー20

礼拝メッセージ 2019.10.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神はあなたを導き、必要な人々との出会いを与えてくださる

主はともにいてくださる

 「人生の訓練学校」という題ですが、これはJ・M・ボイス師がこの同じ聖書箇所を、スクール・オブ・ハード・ノックス(School of Hard Knocks)というテーマで記していたことにヒントを得たものです。スクール・オブ・ハード・ノックスというのは、英和辞書によると「苦難の道、試練」の意味だそうです。ことば通りの意味では「激しく打つ学校」となり、まさに人生という名の学校そのもの、そしてヤコブの信仰生涯をよく言い表していると思います。前回見ましたように、ヤコブは父を欺き、兄を出し抜いて、祝福を奪い取り、家を飛び出しました。祝福を得るためにしたことで、兄から命狙われ、父イサクと母リベカによって、母の兄がいる遠い東の地へと送り出されたのです。旅の途中で、神である主がヤコブに彼に夢で現れて、素晴らしい約束を与えられました。主は、土地の約束、子孫による祝福、約束が必ず成就すること(28:13〜15)を示されたのです。ヤコブは自分の人生に神がともにおられ、導いてくださっていることを明確に知ったのです。この「ここに主はおられる」、主はともにいてくださるというベテル体験が彼の人生の土台となりました。そして、本日の箇所29章から、神の導きと守りをヤコブは経験していったことを聖書は語っています。

主は導いてくださる

 標識も目印もない、おそらく信用できる地図もなくて、どのようにしてヤコブは目的の地にたどり着くことができたのか、詳しいことはわかりません。1節以降に書かれているように、不思議にも彼はそこに着くことができたのです。1節に「ヤコブは旅を続けて」と書いていますが、これは直訳すると「ヤコブは彼の足を上げた」となっています。私たちが主に信頼して、一歩一歩前に向かって進む中で、神は確かに導いてくださるのです。これが神の導きであることの不思議を示すことばは、「そして見よ」(ヘブル語ヴェヒネー)という表現です。日本語にそのまま訳すと読みにくくなるので、多くの場合、違うかたちで訳されてしまうことばです。たとえば、2節でも、二回その表現があり、最初の「ふと彼が見ると」の「ふと」が、この「そして見よ」にあたります。「ちょうどその傍らに」の「ちょうど」がやはりそれです。また、6節のラケルが登場するシーンで、「ほら、娘のラケルが羊を連れてやって来ます」というところの、「ほら」です。「ふと」、「ちょうど」、「ほら」とありましたように、よく見てください、気づいてください、あなたの視線の先に見えるでしょう、あの井戸が、あの羊の群れが、ラケルが、しっかりとそこにいるでしょう、また、やって来るでしょう、という意味です。それらのことが示していることは、神が「わたしはあなたとともにいる」、「あなたを守る」(28:15)、そして導いているということなのです。

主は出会わせてくださる

 ヤコブの人生の第二ステージがここに始まったのです。ベエル・シェバにいる両親と兄と過ごした家から一人離れて、遠い北東の地ハランに行き、妻となるラケルとレア、そして伯父であるラバンとの出会いがあり、そこで子どもが与えられて、新しい歩みの中に漕ぎ出したのです。ラケルとレアの二人に出会わなくては、子孫がちりのように多くなることはなかったし、イスラエル十二部族が起こされることがなかったのです。どうしても彼にとって、そして神のご計画において、必要な出会いが与えられたのです。伯父ラバンとの出会いは、ヤコブにとっては、複雑な思いがあったでしょう。出会ったときは歓迎されましたが、そのあとは煮え湯を飲まされることになりました。しかし、このことを通して、神はヤコブを、次に見るように、「激しく打つ学校」に入れられ、鍛えられたのです。私たちの人生においても、同じことが言えるでしょう。家族、友人、恋人、先輩、自分を教えてくれた人たち等、いろいろな人たちとの出会い一つ一つが今の自分を形造り、育て上げてきてくれたとの経験を持っていると思います。
 そして、自分にとって必ずしも好意的でなかったり、あるいは敵対するような存在でさえも、それもやはり神によって遭わされた貴重な出会いであったのではないでしょうか。


2,神はあなたを導き、あなたの未解決の罪を取り扱われる

欺いた者が欺かれる者に

 かつて欺いた人ヤコブが、今度は欺かれる人になりました。他の人を騙した人がその報いを受ける時がやってきたのです。みことばの視点に立って言うと、ヤコブが気づかず忘れていた罪、人をだまして奪うということを、彼は加害者から被害者へと変わることで、たいへん辛くて厳しい懲らしめをうけることになりました。これからヤコブが経験していくことの中に、何とも厳しいしっぺ返しがあったと言われます。一つ目は、ヤコブはエサウから長子の権利を奪い取り、「兄が弟に仕える」ということばを自分のものにしたと思ったのですが、実際にはヤコブは伯父のラバンに仕えることになってしまいました。二つ目に、ヤコブは彼の父イサクを騙しましたが、今度はラケルやレアの義理の父ラバンに騙されることになったということです。三つ目に、父に長男と思わせて騙したヤコブが、今度は次女ラケルと思わせられて、長女レアと結婚したのでした。最後の四つ目はもっとも厳しいものです。ヤコブは「子やぎの毛皮」を自分の両腕と首に巻き付け、エサウであると騙したのですが(27:16)、彼が老年になった時、今度は自分の息子たちにヨセフの長服を「やぎの血」で浸して騙されることになるのです(37:31)。

栄化へと導かれる

 ヤコブの生涯を見ていくと、彼がはっきりと彼自身が取り扱われる必要のあるところをすぐに悟ったようには見えないし、ある部分では生涯その課題を残したまま、地上での歩みを終えたかのようにも見えます。それでも、神はいろいろな機会を通して、彼に語りかけ、悔い改めて、整えられるように働いていかれたことは確かです。信仰を持って歩む人、キリスト者は、ヤコブの姿を見てもわかるように、生涯成長していく必要があります。神学的な表現をすると、生きている限り、聖化段階の途上にある者として、歩んでいます。ルターが言うように、それゆえ生涯悔い改めて生きる者です。キリスト者であることの信仰の道は、定年も引退もなく、生涯現役です。そして神はやがて私たちが完成、栄化に至れるように、人生の所々でハード・ノックを味わわせてくださるのです。