「イスラエルの子孫の誕生」

創世記 29:31ー30:8、30:22−24

礼拝メッセージ 2019.10.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,神は嫌われている者を顧みてくださる(レア)

人間的なドラマの中で

 哲学者ニーチェのタイトルではありませんが、前回に続いて本日の聖書箇所も「人間的な、あまりに人間的な」話が書かれています。ヤコブと結婚したレアとラケルとが、夫の愛を受けようと、必死に子どもが授かるようにと競争しています。思い返してみれば、ここまでの流れで、兄弟間の競争や闘いというテーマが描かれて来ました。エサウとヤコブという兄弟関係、遡ればイシュマエルとイサクとの異母兄弟の関係もありました。ここに至っても、姉レアと妹ラケルとの間において、夫からの愛を勝ち取るため、子どもを授かるかどうかの熾烈な競争関係が描かれています。しかし、こうした事柄の中に、神がこの人間臭い、不完全で、罪深い一つの家族を顧みられたことがわかります。神は彼らの人間的な願いや祈りを無視することなく、彼らに寄り添って、ご自身の世界大のご計画に加えていかれたことを私たちは知るのです。

嫌われている者レアの苦悩

 レアは悲しい女性として描かれています。レアは妹のラケルに比べて、ヤコブの気に入る容姿ではありませんでした。父ラバンが労働力としてヤコブを長く引き留めるために、レアは利用されたのかもしれません。ヤコブの求めるように最初からラケルと結婚させてしまうと7年間しか、彼を留め置くことができないとラバンは考えたようです。さらに長くして、7年間を加えるため、レアは使われたのだと思います。何よりも辛いことは、彼女は夫ヤコブを愛していたのに、夫が愛しているのは妹のラケルだったことです。29章31節と33節を見ると、夫に愛されていないというよりも、むしろ「嫌われている」という思いが彼女にはありました。なんと苦しい夫婦関係でしょう。何とかして、夫の心を繋ぎ止めようと、多く産むように必死の努力をしていたように見えます。もちろん、レアとラケルの子ども出産競争自体は、とても信仰的に美化できるようなことではありません。そこには何とかして、妹に勝ちたい、あるいは姉に勝ちたいという競争心がありありと見えますし、多くの子どもを産むために手段を選ばない二人でした。彼女たちは、恋なすびというようなものを使ったり、それぞれの女奴隷を夫に与えまでして、競い合ったのです。

嫌われている者レアを愛される神

 32節には「悩み」ということばもあります。レアが愛されず、嫌われていることを感じながら、日々生活することは耐え難い思いであったと想像できます。今日も、愛されていないという不満と苦しみを抱えている人たちが大勢おられることでしょう。また、嫌われたり、無視されたり、いじめられたりして、精神的に大きな苦痛を経験している方がおられると思います。しかし、神は、嫌われている者レアを顧みてくださったのです。同じように、神は嫌われている者、愛されていない者を愛してくださいます。29章31節から35節のレアの告白がそのことを示しています。32節「主は私の悩みをご覧になった」、33節「主は私が嫌われているのを聞いて」、35節「今度は、私は主をほめたたえます」。本日の箇所からも明らかなように、ヤコブにはレアを通して6人の子どもたちが与えられ、後のイスラエル十二部族の先祖となる者のうちの5人(ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン)がレアから生まれました。イエス・キリストの系図に連なる、メシア来臨のラインであるユダは実にレアから生まれました。ユダは愛されず苦悩する者から誕生したのです。


2,神は子を生まない者を顧みてくださる(ラケル)

不妊の女ラケルの苦悩

 姉レアがかわいそうな女性であると言いましたが、妹ラケルはどうだったかと言うと、彼女も決して幸せであったようには書かれていません。現代とは違い、この時代は妻として迎えられた人は子どもを産むことが最重要使命のように思われていました。「ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった」(29:17)し、夫も愛してくれている、それでも彼女は幸せではありませんでした。「ラケルは不妊の女」(29:31)でした。子どもが授からないという苦悩が、日を追うごとに彼女の心を追い詰めていきました。30章1〜2節の夫婦の会話です。ラケル「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます」。ヤコブ「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ」。子どもを産めないなら、死ぬとさえラケルは思っていたのです。

不妊の女ラケルを愛される神

 しかし、神は不妊の女ラケルを顧みられました。「神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」のでした(30:22)。ラケルは神に必死で何年間も祈り続けていたでしょう。ここで明らかにみことばは、ラケルの胎を開かれたのは主であることを明確に語っています(もちろん、レアの胎もそうです)。「不妊の女」と呼ばれた女性たち、サラ(11:30)も、リベカ(25:21)、ラケル(29:31)、マノアの妻(士師13:2)、ハンナ(Ⅰサムエル1:2)、エリサベツ(ルカ1:7)、など、同じ苦しみを抱えた人たちが聖書に書かれています。そこで適用として学べることは、彼女たちに子どもが与えられたかどうかというよりも、神は、苦しみ悩んで祈る者の声を聞かれ、御心に留めて、導いてくださるという真理です。付け加えると、愛されてはいるが、不妊の女であったラケルから、後にイスラエル(ヤコブ)の一族を救済することになるヨセフが生まれました。このこともとても重要なことでした。


3,神は弱小の者たちを顧みてくださる(ヤコブの子ら)

 アブラハムが聞いた神の約束(15:5)はいったいどうなるのか、創世記はその後に起こった様々な出来事を記していますが、今日の箇所でその祝福の約束がかたちをもって現れました。あまりに人間的なこれらの子ども授かり競争によって、結果として何がもたらされたかと言えば、それはこれから聖書において中心をなすイスラエル民族の先祖となる人々が誕生したことです。不思議にもこれらのことからイスラエルの輝く未来が開かれていったのでした。この十二人からそれぞれ子が生まれ70人(46:26)となり、出エジプトの時代には、男子20歳以上人口で60万人を超えていました(民数1:46)。神は、ヤコブの一族、後にイスラエル民族として成長していくというこのご計画を通して、世界に対する神の愛と恵みを明らかにされているのです。