創世記 32:1ー21
礼拝メッセージ 2019.11.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,危機の中で準備したヤコブ
逃げられない危機の中で
義父ラバンのもとでの20年間の滞在を終え、生まれ故郷に帰るヤコブでしたが、その旅には幾多の苦難が待っていました。ラバンとの決別にあたっても、そう簡単には去らせてくれませんでした。ヤコブは、二人の妻と子どもたち、しもべと多くの家畜を率いての移動です。ラバンがそのあとを追いかけてきて、緊張の走るようなやりとりがなされました。そこをなんとか乗り越えたヤコブでしたが、故郷への道には、避けて通ることのできない人との再会が待っていました。ヤコブが欺いて、祝福を奪い取った兄エサウとの再会です。義父ラバンのもとに身を寄せたのも、兄エサウの怒りから逃れるためでした。自分を殺さんばかりに恨みを持つ兄と会わなくてはなりません。ヤコブからすれば、会わないで済むのなら、一生顔を見ずに過ごしたい気持ちだったでしょう。でも、この最大の課題から逃げることも避けて別の道を行くこともできないのです。そうした危機の中で、ヤコブは何をし、そしてヤコブが信じている神は何をしてくださったのでしょうか。ともに見ていきたいと思います。
調査と準備
ヤコブが最初にしたことは、使者を遣わして、兄エサウに前もっての挨拶をし、その様子を伺うことでした。3節「ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った」。使いの者を送ることで、ヤコブは兄エサウとの出会いに備えました。6節 「使者は、ヤコブのもとに帰って来て言った。『兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます』」とあり、使いを送ったことによって、二つのことがわかったのです。一つは、兄エサウは会うこともできないほどの好戦的な態度ではないことです。もしエサウが敵意むき出しの状況なら、使者は生きて返されなかったかもしれませんし、また「あの方も、あなたを迎えにやって来られる」ということばを聞けなかったはずです。二つ目に、兄エサウは「四百人」もの勢力を持っているという情報です。これは容易ならぬ警戒すべき相手であるとの思いをヤコブに抱かせました。ヤコブは非常に恐れ、不安になりました。しかしヤコブはそれと同時に、自分にできる策を考えました。いわば作戦を練ったのです。
作戦の計画
彼の取った作戦は、二つありました。一つは、7〜8節です。「それで彼は、一緒にいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けた。『たとえエサウが、一つの宿営にやって来て、それを打っても、もう一つの宿営は逃れられるだろう』と考えたのである」。最悪の事態に備えて、二つの宿営に分けておくことで、たとえやられても全滅を回避できるという策でした。もう一つは、隊列の組み方です。16節「彼は、しもべたちの手にそれぞれ一群れずつを渡し、しもべたちに言った。『私の先を進め。群れと群れの間には距離を置け』」。このように、第一の群れ、第二の群れ、というように隊列を組み、間隔を置くようにしました。防衛のためです。そしてヤコブは自分たちを列の最後、最後尾にいるようにして身の安全を図りました(33:1〜2)。
2,危機の中で祈ったヤコブ
神との関係に立つ
しかし、ここで最も注目すべきは、ヤコブが神にしっかりと祈ったことでしょう。9節から12節に、この危機に際しての祈りが記されていますが、創世記の祈りのことばで最も長いものです。ヤコブは危機に臨んで、あらためて神と自分との関係を確かめることとなり、神から受けているみことばの約束を思い起こすのです。そこで彼は、自分にとって、最も大事なことは何であるのか、どなたが自分の人生を導いているのかを悟ることになりました。9節「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた主よ」。祖父アブラハムに召命を与え、信仰による奇跡をもって父イサクを誕生させた神が、この私の神であるとヤコブは祈りの中で確認するのです。この神こそが私に幸せを、慈しみをほどこしてくださるとの思いを新たにしています。
神の御前でのへりくだり
10節の祈りのことばは、ヤコブの口から出たとは思えないものです。「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました」。ヤコブの神への感謝とへりくだりがここにはっきりと言い表されています。危機に臨んで祈る時に大切なことは神の御前にへりくだるということです。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」(ヤコブ4:10)。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)。
神への直接的な願い
ヤコブは神に向かって、御前でへりくだりをもって近づき、その上で彼の思いを率直に伝えました。「どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。」(11節)。自分が何を恐れ、何を求めているのかを、ヤコブはことばにして神に頼りました。祈りはそういう意味では、本音でなくてはならないのです。主イエスは、癒やしを求めて近づいて来る人たちに向かって、「何をして欲しいのか」とお尋ねになりました。自分のことばで、ありのままの心の思いと願いを、祈りの中で神にお伝えしましょう。
3,危機の中で働かれる神
ヤコブのそうした行動と祈りがなされる一方で、神もそこで働かれていました。1節と2節を見ると、神の使いたちが、危機の只中にあるヤコブに現れています。ヤコブは神の使いたちを見て、「ここは神の陣営だ」(マハナイム)だと言いました。「陣営」ということばは軍隊のキャンプや軍勢を意味していて、ヘブル語で「マハネ」です。「マハナイム」はその双数形で、二つの陣営という意味です。二つとは、一つは神の陣営、もう一つがヤコブの陣営でしょう。実は、8節や10節で「宿営」と訳されていることばも原語では同じ「マハネ」です。ヤコブだけでなく、神の使いたちも陣を張ってくれているという意味です。ヤコブは危機を乗り越える中で、神との交わりだけでなく、人との和解を築くように導かれたのです。