「神との戦い」

創世記 32:22ー32

礼拝メッセージ 2019.11.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,土地の名前が示すこと

謎に満ちた聖書箇所

 この聖書箇所は解釈し、理解することがたいへん難しいところです。実に多くの謎に満ちています。ヤコブと格闘した「ある人」とはいったい誰だったのか。その格闘したことは何を意味しているのか。それによって、なぜ祝福を受け、名前が変わったのか。そして結果としてなぜ足を引きずることになってしまったのか。まったく不可思議なことだらけです。こうした箇所から、今日を生きる私たちは何を学ぶべきなのでしょうか。ここを理解する鍵は、「名前」です。それが強調されています。ヤコブと格闘した「ある人」との会話は、27節「あなたの名は何というのか」に対して、ヤコブが自らを名乗り、そして新しく「イスラエル」と名付けられます。ヤコブ(イスラエル)は、逆に「ある人」の名前を教えてくださいと尋ねています(29節)。それから、二つの地名がここに書かれています。「ヤボク」(22節)と「ペヌエル」(30節)です。

マハナイム

 「二つの陣営」(マハナイム)ということばには、32章の話から見ていくと、おそらく二つの意味が込められていました。一つは、神の使いたちが「二つの陣営」をもってヤコブたちとともにいて戦い、守ってくださるということです。そしてそのことから、ヤコブは安全策をとって、自分の宿営(陣営)を二つに分けました。そこで第二の意味が明らかになりました。ひとりぼっちで旅立った彼が、今や大家族となり、「二つの宿営」を持つまでに至ったという神の恵みを示すものでした。

ヤボク

 次に、22節にある「ヤボク」です。これはヤコブによって名付けられた地名ではないようですが、ヨルダン川の東側を流れる支流の場所を指しているようです。多くの注解書が書いていますが、この「ヤボク」(子音ybq)は、24節で「格闘した」というヘブル語「ヤベク」(子音ybq)にかけたものであるということです。さらに言えば、「ヤコブ」(子音yqb)という名前の音もそれに近いので、「ヤコブ」(人名)が、「ヤボク」(地名)で、「ヤベク」(格闘)した、ということになります。土地の名前は、ある出来事の象徴や歴史の記憶と結びついていき、人はその名前を聞くだけで、神の恵みを受けた過去の信仰者たちの歩みを思うことができ、しかも自分が受けて来た恵みの経験をもそれと重ね合わせ、神への礼拝と感謝を生み出すものとなります。また信仰を持つ人たちの集団や共同体として、それを聞くならば、さらに大きな広がりを持つことになります。この章の終わりに出て来る「ペヌエル」とは、神の顔という意味であり、それが表している恵みも同様です。


2,名前の明かされない「ある人」

「ある人」とは誰なのか

 ここに唐突に登場して、ヤコブと組打ちする「ある人」とは、いったい誰なのか、何と言ってもこのことがこの聖書箇所を一番難しくさせていることは間違いありません。いろいろな解釈がありますが、大別すると二つの解釈に要約できます。一つは、御使い(天使)であるという理解です。この場合、悪い存在として、サタンの使いのように考える人もいますし、そうではなく、善なる天の御使いであるとの理解を持つ人もいて、理解が別れています。それからもう一つの別の見方は、神ご自身と同一視する解釈です。たとえば「主の使い」という方のことが旧約聖書にはいくつか出て来ますが、ほとんど神と同等の方として描かれています。証明はできないのですが、「主の使い」とは、受肉前のキリストであると考える人も多くいます。では、この箇所についてはどうでしょうか。もし神ご自身であるなら、なぜヤコブと格闘して勝てなかったのか、また「ある人」(ヘブル語でイッシュ、男性の意味)と表現しているのか、という疑問があります。にもかかわらず、祝福を与えることができ、ヤコブに対して「神と戦って勝った」とも言われ、ヤコブ自身も「私は顔と顔を合わせて神を見た」とも言っています。やはり神ご自身なのでしょうか。
 ホセア書には「主は、生き方に応じてヤコブを罰し、行いに応じて報いる。ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力で神と争った。御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った。」(12:2〜4)とあり、これにも「神」とも「御使い」とも取れるように書いています。ただ明確に言えることは、この箇所はあえて「ある人」についてその正体を明かしていないということです。神であるとも、御使いであるとも明言していません。しかもこの方は夜明け前に去らせよと、自分を明らかにすることを望まなかったのです。私はここに、いわゆる神の匿名性や隠匿的なご性質ということを見ます。神はご自身を隠すお方です(イザヤ45:15)。主イエスがエマオの途上で弟子たちに現れ、見えなくなられたことにもそれは表されています(ルカ24章)。

「ある人」と格闘すること

 この格闘は実際に一対一のレスリング、肉体的なぶつかり合いでした。夢の中で起こった幻ではなかったのです。その格闘の中で、ヤコブはももの関節を打たれて、外れてしまいました(25節)。それでもなお、この聖書箇所が示している真理は、真の神を信じる信仰というものは、単にご利益を求めて祈願したり、宗教的行事や儀式にあずかるというようなことではないことを明らかにしています。創世記が語っている信仰とは、生ける神に突然に襲撃されて、その神とつかみ合って勝つか負けるかの危険な勝負をするような営みであるということです。


3,ヤコブの名前はイスラエルに

 ヤコブは、この格闘の中で、「あなたの名は何というのか」(27節)と問いかけられ、「ヤコブです」と答えます。ヤコブという名前は、双子の兄エサウの足の「かかとをつかむ者」であると説明され(25:26)、後にはエサウから、その名前を「押しのける者」(27:36)であるとも言われます。「ヤコブです」と答える中で、彼は自分が何者であったのかをこの神的な存在者によって暴かれたのです。この格闘を通して彼が得たのは、新しい名前「イスラエル」でした。「イスラエル」の名前の語源については諸説ありますが、28節通りに理解すると、「神が戦う」または「神と戦う」という意味です。かかとをつかんだり、押しのけたりしたのは、自分だけで事を行って生きている人が、必死に生きていたからだと思います。この世で勝たなくてはならない、だから人を押しのけてでもがんばるのだということでしょう。しかしヤコブからイスラエルに改名されたこの人は、もはやそのように生きる必要がなくなりました。この人生は神が支配し、戦ってくださるのだから、戦う相手は、人間であるエサウでもラバンでもなく、神であるということに変わりました。神と顔を合わせて向き合い、祈りの中で神と戦うこと、それがイスラエルとなった彼の歩みの全体を決めるのだということです。