「油注がれた者」

詩篇 2:1-12

礼拝メッセージ 2019.12.1 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


王の詩篇

 古代イスラエル王(油注がれた者)に関する詩篇です。7節の言葉から,王の即位式の時に歌われたと考えられていますが,王位継承者が生まれた時に歌われる詩であるという説もあるようです。
 1-3節 まずは,ヤハウェ(主)に逆らう者たちについて述べられています。古代イスラエルは,多くの国々にとりこ囲まれて,その政治的・経済的・社会的な圧迫に苦しみ続けていました。それは、イスラエルの神であるヤハウェ(主)に逆らうことであり,その主である神が指名した油注がれた者(メシアであり王である者)に逆らい圧迫を加えることでもありました。3節の言葉はそのような現実とは対照的に,ヤハウェに逆らう王たちがイスラエルの神であるそのヤハウェに支配されている事を表現しています。ヤハウェが世界に支配権を行使しているのです。王たちや諸国民はその支配から逃れることを望みます。
 4-6節 ヤハウェの反撃が語られています。ヤハウェは神として天に住み,その力は諸国民を凌駕していることが示唆されています。
 その外国の王や諸国民がヤハウェに逆らうので,神は彼らに対して怒りを表わします。そして,神はシオンの山で王を任命します。シオンはエルサレムにある神殿が建てられている丘の名前であり,ここではエルサレムあるいは神殿そのものを指していると考えられます。
 7-9節 主の定め(任命証書)に従って,詩篇著者(王と重ね合わされています)は神の言葉を伝えます。7節は,ヤハウェが王を任命した宣言の言葉として理解できます。政治的な現実とは違って,任命された王はヤハウェに逆らう諸国を支配することになります。それは領土を獲得とするという意味だけでなく,その支配権(政治的な力)が国々に及んでいくとのイメージです。
 10-12節 そのようなヤハウェの任命した王の力の伸張の前に,諸国の王たちは再び従う事を求められます。はっきりとヤハウェの支配権を認めて,その教えに聞くべきです。それが進むべき道であること,主の怒りを避けることであると示唆されています。


油注がれた者の役割

 この王の詩篇は即位のための詩篇であると考えられてきました。しかしその王の力は,ヤハウェに裏打ちされています。神であるヤハウェの支配権を委託されているにしか過ぎず,王が神になることは決してありません。また王が神の地位に立つことも認められません。イスラエルに逆らう国々の王は,その国々では神として,あるいは神からの派遣者として考えられてきました。諸国の王は神の地位を獲得していたのとは対照的です。歴史的に見て、イスラエルが諸国民を支配する実力を持つことはなかったので,この記述はイスラエルの強がりとも受け取れるし,巨大な諸国への抵抗とも言えるでしょう。
 古代イスラエルも力を志向したといえますが,律法をよく読んでいけば,そのような政治的な実力な軍事力が神ヤハウェの理想でないことが分かります。虐げられている者が解放され(出エジプトの物語),互いに助け合いながら生きていけるように神は配慮し(シナイ契約),人々がそのような生き方を求めるのです。イスラエルの神が人間を選び王として立てる(神が王を生む)のは,神や王の権力を振るい人々を圧迫するためではありません。あるいは自分たちの利益のために人々を傷つけ,殺害するためでもありません。神が王権を確立するのは,神の価値観がイスラエルに実現されるためでした。


メシア(キリスト)としてのイエス

 この聖書の1-2節は使徒4:23-31において引用され、メシアであるイエスを殺害した預言として理解されています。7節は使徒13章においてイエスの復活の事として引用されています。ヘブル書1章では、7節を引用してキリストの天使に対する優位性を語ります。詩篇著者が歴史的イエスを見ていたとは言えないにしても,後のキリスト教会はこの詩篇おいてイエスの預言があると理解しました。それは,神の計画の実現というよりも,旧約における神の王権の理想とイエスの神の国宣教とが同じ方向を指していると理解しておきたく思います。イエスが神から選ばれたのは,人を滅ぼすためではなく,人を神に招き,神の価値観に生きる道を示すためです。イスラエルの王たちも同じ価値観をもたらすために任命されたのです。私たちが神の立てた王権に従うとは,あるいはイエスを主人として告白することは,自分がイエスの奴隷となる告白であり,奴隷である限り神の命令を守る(神の価値観を実現することの命令であり,勧告ではない)ことが求められます。それは,神の目的である人の救済を実現するためです。クリスマス・シーズンは、そのようなメシアとして告白されたイエスが誕生したことを祝う時です。私たちの祝いとは、そのメシアを通して実現される神の意志への期待を新たにし、私たちもそこに加わることを願う時です。