「インマヌエル」

マタイの福音書 1:18ー25

礼拝メッセージ 2019.12.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,マリアの胎に聖霊によって宿られた子

イスラエルのジェネシス

 新しい人が生まれ出ることは非常に喜ばしいことです。マタイの福音書1章は「生まれた」という記事でいっぱいの箇所です。1章2節から見ていくと、「アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、…」というように誰々が誰々を「生んだ」ということばが何度も繰り返され、たくさんの人名が出てきています。もちろん、これは1章1節で「イエス・キリストの系図」と書かれていますから、全部、家系図としてそれぞれの人たちが親子関係であり、繋がっていることを示しています。しかし、これはルカのほうの系図と異なっていて、誰々の親はこの人で、さらにその親は誰でというように、新しいところから古いほうへと遡っていくのではなく、誰によってその人が生まれたのかという旧約聖書の中に見られる表現で書かれています。日本語では「産む」ではなくて、「生きる」という字の「生む」が使われています。ですから、母親の名前は数名しか出てこず、ほぼ父親の名前が記されているかたちです。これはアブラハムから始まり、ダビデを通って、捕囚期間からヨセフにまで至っています。その名前を辿っていけば、それがそのまま旧約聖書に記録されてきたイスラエルの歴史そのものになっています。そしてそのイスラエルを生み出してこられたのは、神であるというメッセージがその背後にあるのです。それは、ここで「生む」ということばが多用されているところから類推できることです。ギリシア語では、ギノマイということばです。このギノマイは、生むとか、生じる、出来事が起こるという意味です。その同じ語から出たことばが、1章1節の「系図」と18節の「誕生」と訳されているゲネシスやゲネセオースという表現で、英語表記するとジェネシスで「創世記」の意味があります。神が今までこの小さな家系にすぎなかったイスラエルの民の流れを絶やすことなく、奇跡的に保たれてきたのです。それゆえ、この系図部分の「生んだ」という繰り返しは、単なる名前の羅列ではなく、それぞれの人たちを歴史の中で神が誕生させ、守り導き、子孫を約束通り与え続けてこられたという神の御手を示すものです。

イエス・キリストのジェネシス

 その上で、18節の文章があります。「イエス・キリストの誕生(ジェネシス)は次のようであった」。このジェネシス、すなわち「生まれる」という出来事は、これまでのアブラハムからヨセフまでのそれとは根本的に異なった出来事であったと説明されています。2〜17節までのように、決して「ヨセフがイエスを生んだ」のではなかったのです。18節と20節に「聖霊によって身ごもっている」あるいは「聖霊によって宿っている」と繰り返されています(これは文学表現の「囲い込み」です)。イエスは母マリアの中に、聖霊によって宿られました。これまでのイスラエルに対する神の約束と歴史の流れを踏まえつつも、それとは全く次元の異なるあり方でこの「イエス・キリスト」というお方は来られたということを18節以降の箇所は明らかにしているのです。
 それは、キリスト教会が処女懐胎、処女降誕と呼んで来たものです。この方は人間としてお生まれになったが、超自然的なかたちで来られたということです。しかも、それは21節の来臨の目的から、必要なことでした。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」。イスラエルを、そして全世界を、私たちをその罪から救うために、罪のない人として来られたのでした。


2,その名をイエス、インマヌエルと呼ばれた子

イエスと呼ばれる方

 次に、この1章には、名前ということにこだわりをもって記されているということです。これも前半が系図的なものなので、当然のことですが、やはり1〜17節までとの繋がりで、18節以降を見ていくと大切な点であると思います。18節からの記事では、キリストとされたお方の名前の意味が語られています。イエスとインマヌエルという二つの名前です。21節と、23節をそれぞれ直訳すると、21節は「あなたは彼の名をイエスと呼ぶであろう」で、23節は「彼らは彼の名をインマヌエルと呼ぶであろう」となります。どちらも未来形の表現で「呼ぶ」(ギリシア語カレオー)という語が使われています。ということで、この二つの名前によって、どのようなお方であるのかを示そうとしていることがわかります。
「イエス」という名前は特別なことのない、普通につけられる名前でした。ヘブル語的に表現し直すと、「ヨシュア」や「イエシュア」となります。しかし、これも先程見た21節で、「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」から示されているように、モーセに代表される律法の時を越えて、新時代を切り開いて約束の地へと民を確実に導いていく旧約聖書のヨシュアというイメージを表す名前であると考えられます。「イエス」という名前の意味が主は救いであることはよく知られています。まさに、主が民を救われるということを確かに実現されるお方として、この方は来られたのです。

インマヌエルと呼ばれる方

 もう一つ出て来る名前の「インマヌエル」についても、見ておきたいと思います。23節「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。これは脚注にもありますように、旧約聖書イザヤ書7章14節の引用であり、そして8章8節にもその名前が出て来ます。引用元のイザヤ書を見ると、預言者が生きていたその時代から、これからどのようなことが起こるのかを指し示す名前として、このインマヌエルが記されています。他に、7章3節「シェアル・ヤシュブ」(残りの者が帰って来るという意味)と、8章1と3節「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りものは素早く、獲物はさっと持ち去られるという意味)の二つの名前もあります。このシェアル・ヤシュブとマヘル・シャラル・ハシュ・バズは、イザヤ自身の子どもに付けられた名前でした。特に、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という名前は、その後、国がこの先どんなに悲惨な目に遭い、苦しまなくてはならないのかを示すものでした。しかし、イザヤの預言は、その7章と8章を見れば、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(8章1〜4節)を取り囲むようにして、7章14節と、8章8と10節で「インマヌエル」、「神はわれらとともにおられる」という表現を高く掲げています。インマヌエルとは、ヘブル語で、イム(ともに)と、ヌー(われら)と、エル(神)で構成されたことばです。大事なことは、私たちとともに、という点です。この「われら」の中に、あなたも私も含まれています。私を愛し、私のために来られ、私を救い出し、私を助け、ともにいて導いてくださる、そういう方として、イエス・キリストは来られたという、これは神からの宣言のことばなのです。