「この方のなさったことはみなすばらしい」

マルコの福音書 7:31ー37

礼拝メッセージ 2019.12.29 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスはあなたのところに来られた

 31節「イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた」と本文にありますが、ここは直訳すると「彼(イエス)は再びツロの地方を出て、シドンを経て、ガリラヤ湖に、デカポリス地方の真ん中に来られた」となります(下欄別訳や第三版を参照)。地図を見ればわかるように、イエスはたいへんな大回りをして、ガリラヤ湖の南東、デカポリス地方の中へ行かれました。おそらく反対や迫害があったという理由でしょう。しかもその地域に来られたことには大きな意味がありました。デカポリスはギリシア文化を保持した地域で、その地の人々はユダヤ人に敵対的であったと言われています。イエスがかつてゲラサ人の地に弟子たちと行かれたとき、そこでレギオンと名乗る悪霊に憑かれた男がおり、御力によって彼を解放されたのでした。そのことの中で豚数千頭が崖から下り落ちて死んでしまいました。その後、悪霊から解放された男は、自分の家族のところに帰り、主があわれみ、どんなにすばらしいことをしてくださったかを言い広めました(5:1〜20)。その地の人々はイエスを退け、追い出した地域だったはずです。しかしイエスは再び来られたのです。イエスは、ご自分を拒んだ人であっても、心を向けて求めるなら、遠回りをしてでも、そこへ近づいて来てくださいます。今年も主はご自分を受け入れないこの国、日本の町々で私たちのところに来てくださり、助けてくださいました。


2,イエスはあなたに触れられる

 33節「イエスはその人だけを群集の中から連れ出し、」とあります。どうしてひとりだけを連れ出されたのかを考えると、癒しのわざを人々の前ですることで、その奇跡のことだけに注目を集めてしまうことになるのを避けられたからかもしれません。しかしもう一つ言えることは、音のない世界で目に見えることにだけ心を向けて来たこの人を、イエスはそこから引き離して、彼の眼前に立つイエスだけに目を向けるようにされたのではないでしょうか。そして、開かれたこの人の耳が何よりも最初に聞くべきものは、イエスの御声であるようにされたのです。
 33節を読むと、手のかかるようなことをイエスがされているように見えます。ただことばだけで癒しや奇跡をされたこともあるのに、この人に対しては、群衆から連れ出し、両方の耳と口の中の舌にその御手をもって触れています。耳が聞こえず、口のきけない人の傷んでいる部分に触れることで、何かその苦しみを主自らが背負ってくださっているような印象です。メシア預言として有名なイザヤ書53章では、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」(3節)と記されています。「悲しみの人」の脚注には「痛みを知る人」とも訳せるとしています。痛みを知るため、病を癒すため、その苦しみを担うためにイエスは患部に触れられました。
 34節に「天を見上げ、深く息をして」とあります。どうして深く息をされたのでしょうか。ある聖書解説者は当時の魔術師が行う仕草に似ているというようなことを語っていますが、この場合はそれとは違うと私は思います。8章12節にも同様な表現が見られます。「イエスは、心の中で深くため息をついて」。この「イエスの深い息」をされたことの中に、耳の聞こえない、しゃべることのできないこの人の苦しみ、悲しみ、痛みを感じての嘆息であったのだと思います。あるいは、この人の中に見られる苦難がかたちや事の大小の違いはあっても、その町の人々すべてに通じる苦悩であったと考えれば、人間すべての罪の苦しみや痛みに対する、声にはならない主のうめきであったのかもしれません。


3,イエスはあなたの心を開かれる

 耳と口とを癒される時に、イエスが発せられたこの「エパタ」ということば、これはアラム語で、「開け」「開かれよ」という意味です。なぜアラム語の音声をそのまま記録したのでしょうか。たぶんそれほどこの発せられたことばそのものにインパクトがあり、これを近くで聞いた弟子たちの耳の奥で消えることのない響きが残ったからでしょう。開く、開かれる、ということばは、象徴的な印象を与える表現です。主がエパタと叫ばれるとき、すべてのことが開かれるという期待を持つことができます。主がエパタと命じられると、閉じられていた耳が開かれ、舌のもつれがほどけました。そして固い心が開かれ、重くて動かない扉が開かれ、先の見えない暗い道に光がともり、この御声を聞いた者の全人格が解放されていきます。
 35節で「彼の耳が開き、舌のもつれが解け」とあるように、まず耳、そして舌という順番も意図されたことであると思います。なぜなら、信仰のことは、まず聞くことから始めなければならないからです。「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10:17)のとおりです。E.H.ピーターソン師は『牧会者の神学』(日本基督教団出版局)という本で、詩篇40篇6節のことばをこう解説しています。「(この箇所の)[あなたは私の耳を開いてくださいました]とありますが、その直訳は「耳を掘る」である」と。主は私たちの耳をその穴を掘るようにして開けてくださるというのです。主によって私たちは聞く者とされ、そして聞くべきことばはイエスの御声なのです。
 次に癒やされるべきところは舌です。35節「舌のもつれが解け」となっていますが、「舌の束縛が解かれた」(直訳)と書いています。私たちの舌も束縛されていると言えるかもしれません。本来、語るべきことを語ることができず、かえって言うべきでないことを言って、悪いものを周囲にばら撒いて、悪影響を与えている場合もあるのです。エペソ人への手紙4章29節をアンプリファイド訳は、次のように記しています。「腐っており、けがしてしまう悪い言葉を、(また)不健全で無益な話を、あなたがたの口から出してはいけません。むしろ、他の人々の霊的進歩のために、良い、そして有益な、必要と機会に応じたものだけを話すようにしなさい。それを聞く人たちにとって、祝福と恵み(神の愛顧)を与えるためです」。私たちは解かれたこの舌をもって何を語るべきなのでしょうか。おわかりのとおり、私たちがこの舌で発すべきことは、主を高らかに賛美し、感謝を捧げることです。37節で、デカポリス地方の奇跡の目撃者たちは「この方のなさったことは、みなすばらしい」と主をほめたたえたのでした。