「信じて生きることに価値はあるか」

ペテロの手紙 第一 1:6ー9

礼拝メッセージ 2020.1.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,様々な試練の中でどう生きるのか

生きる意味の探求

 今回のメッセージは、挑戦的なタイトルを付けました。「信じて生きることに価値はあるか」です。ペテロがこの手紙を書いた時代もそうだったと思いますが、私たちの現実の歩みの中で、しばしば考えてしまう問いだと思ったからです。しかし、もう少し広げて言うと、この「信じて」を抜いて、そもそも「生きることに価値はあるか」というテーマも、この問いかけにつながっていることであると思います。なぜ生きていかなくてはいけないのか、生きることに一体価値はあると言えるのか、これは私自身が青年の時に抱いた疑問でした。「生きがい」あるいは、「生きる甲斐」は本当にあるのか、ということです。もちろん、そんなことを難しく深刻に考えなくても、人は生きていけます。でも、6節にあるように「様々な試練の中で悲しまなければならない」という現実に直面すると、心のどこかで生きる意味を考えてしまうものだと思います。

シジフォスの地獄

 作家アルベール・カミュが『シジフォスの神話』(邦訳では『シーシュポスの神話』)という本を書いています。よく知られたギリシア神話をテーマにした論考です。シジフォスは人間の中でも最も賢い者とされた人でした。ところが神々の怒りを買うことになり、地獄に突き落とされてしまいます。彼が受けた地獄での刑罰は、一つの大きな石を高い山の頂まで押し上げるという労役でした。一生懸命大きな石を転がして高い山を登るのですが、頂上まで着くと石は自分の重さでまた麓まで転げ落ちてしまいます。それでシジフォスはまた麓まで下りて行って、一から石を押し上げるのです。しかし頂上まで着くと、また石が転げ落ちる。彼はそれを無限に繰り返すことになります。
 無限に同じことを繰り返す、このように虚しく無意味に思える仕事ほど、過酷な労働はないし、最も恐ろしい刑罰はないとカミュは言っています。ペテロの手紙で「様々な試練の中で悲しまなければならないのですが」とあるように、試練は様々であり、この試練を乗り越えて安心できたと思ったら、また別の苦しみが襲って来て、それに対処していかなくてはならなくなる。あたかも無限ループに入れられたようになって、シジフォスの地獄にいるかのようです。人生をそんな風にしか感じられなくなり、様々な試練に揉まれて疲れ果ててしまうと、生きることそのものに絶望してしまいかねません。しかし神は、シジフォスの地獄にいるような私たちのところに降りて来て、わたしを信じて生きよ、と今も語りかけておられるのです。


2,様々な試練の中で神を信じて生きること

永遠の視点

 試練ということでは、ペテロは四つのことをこの箇所で示しています。まず、無限と有限という対比です。6節で「様々な試練」が「今しばらくの間」のものであると書いています。終わり部分ではこう書かれています。「ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(5:9−10)。苦しみや試練は永久に続くものではありません。終わりが必ずやって来るのです。苦難は有限なものであり、反対に、私たちが受けることになる「称賛と栄光と誉れ」(1:7)は永遠に続くものです。パウロも同じことを語っています。「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(Ⅱコリント4:17)。苦しみのトンネルは長く感じられ、いつ終わりが来るのか、本当に長く辛いことです。しかし、終わりは必ずやって来ることを覚えたいと思います。

本物と証明されていく過程

 次に、7節を見ると、「試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価」であると書かれています。この「試練」と訳された語(ギリシア語ドキミオン)は、本物であることが証明されたという意味です。ただ注意しておきたいことは、これは神の大きな視野の中でそう書かれていることなので、苦しみイコール信仰の純化テストという理解に導かれるかどうかは、苦しみの渦中にある人自身の受けとめに属するものだということです。他の人が苦しむ人に向かって、安易に自分の信仰解釈を押し付けてはいけません。それは痛む人の傷口に塩を塗りつける行為になりかねないことを覚えておきたいと思います。いずれにしても、信仰の価値というものが明らかにされていくことがここで語られていることです。6〜9節の内容を見ると、現在の試練と対比されることは未来の希望に結びついていることは明らかなのですが、ペテロは注意深く、未来のことを示しているような内容であっても、ここではあえて未来形の語は使いませんでした。信仰をもって歩むことはただ将来だけを夢見て生きることではないからでしょう。E.P.クローニーという学者は注解書で「キリスト者はもうすでに存在している未来の中を生きている」と書いています。

キリストとの人格的な信頼関係という信仰

 お気づきのように、この6〜9節の箇所は、試練について記しているにも関わらず、信仰をもって生きることの喜びが、どんなに大きなものであるのかが語られています。6節で「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます」とあり、8節では「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています」と書いています。この6節と8節での「大いに喜ぶ」あるいは「喜びに踊っている」ということば(ギリシア語アガリアオー)は、ふつうに喜ぶのではなくて、非常に喜んでいて、躍り上がって喜ぶという意味です。苦しみの中にいて、喜び踊るような嬉しさを持つことは可能なのでしょうか。また、それはどうしたらそういうことになるのでしょうか。8〜9節が明らかにしていることは、それは、イエス・キリストというお方と人格的な信頼関係に入ることが、その鍵であることを示しています。私たちは自分の目でキリストを見ることはできないのですが、信仰によって、この方を愛し、尊び、喜ぶことができるのです。