「聖なる者として生きる」

ペテロの手紙 第一 1:13ー21

礼拝メッセージ 2020.2.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,人をつくる希望

希望ーすべての人に必要なもの

 人生100年時代と言われる今、その生きる質や内容、いったいどんなふうにしてその長い時間を過ごすのか、生きていくのかを、誰もが考えなくてはならないと思います。聖書は、私たちが生きていく上で、なくてはならない3つのものを示しています。それは、信仰と希望と愛です(Ⅰコリント13:13)。しかしこの中で、希望と愛は、キリスト者であっても、そうでなくても、生きていくためにどうしても必要なものであると思います。ペテロの手紙第一1章もこの13節からは、苦難の中にある神の民が、生ける希望をもって歩むことの実践的勧めが書かれています。3節から21節までを見ると、ペテロの手紙第一が、その3つの中で「希望」ということに特にフォーカスを当てていることがわかります。
 まず第一番目ですが、3節でペテロは「生ける望み」という表現を使いました。これは「生き生きとした希望」とも言えるし、「絶望することもなく、失うこともない、ずっと生き続ける希望」と言い換えても良いと思います。そして今日の箇所の13節が第二番目で、「待ち望みなさい」ということばがあります。これは、「希望」ということばを動詞形にした語です。ですから、その単語だけ取り出して訳すと、「希望せよ」あるいは「希望を持て」ということになります。そして三番目は、やはり今日の箇所の21節です。「あなたがたの信仰と希望は神にかかっています」というところの「希望」です。ペテロはこのように「希望」ということばを繰り返し使って、苦難のただ中にあるキリスト者たちが最も必要としているメッセージを語りました。

希望ーことばに尽くせないこと

 ペテロは手紙の中で「イエス」というお名前を書く度に、イエスの地上生涯においての三年間、身近に接する中で見てきたイエスの優しい笑顔、がっちりとした長身のお姿、時に力強く、時には小さく話しておられた御声などを思い出して、筆が進まないこともあったのではないかと思います。ところが、それほど身近にイエスと接していながら、ある意味ではイエスというお方について、ペテロは自分が十分に理解できておらず、極端に言えば本当のイエスを何も悟れてはいなかったことに気づいたと思います。イエスが十字架にかかられ、復活されたことを見た時、ペテロは今までのいろいろな主と歩む中で聞いた話や、御業を思い起こし、それが旧約聖書に記されている事ごとと完全につながって理解されたと思います。今まで見えていなかったイエスが見えてきたのです。そういうことだったのか、ということを繰り返し経験したと思います。イエスの十字架と復活と昇天のあと、ペテロも他の弟子たちも、ほんとうのイエス、真の信仰がわかったのです。それは公生涯のイエスを見ていなくても、触れ合った経験がなくても、イエスがどんなに素晴らしく、美しく、栄光に富んだお方であるのかがわかることを示しています。それが8節です。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています」。そしてイエスがキリストとして再び現れてくださるという大いなる望みに、すべてのイエスを主と告白する人たちがあずかれるのです。聖書のことばを解説しているのに矛盾かもしれませんが、その希望の素晴らしさというものは、ことばで表現することがもどかしいほどのことなのです。救いの恵み、キリストの栄光の来臨の希望、主を愛する者たちに与えられているものはペテロも書いてしまったように、「ことばに尽くせない」ことなのです。ペテロが記す希望とは、ことばで到底表現し尽くせないほどのものなのです。


2,聖なる者をつくる希望

ホープ・アンド・ホーリー

 ペテロは希望ということについて記してから、「聖なる者となりなさい」と命じていることには意味があると思います。希望があるから、このように命じることが自然にできるのです。ある注解書にはこの13?21節をそれゆえにHope and Holyと要約していました。ホープ(希望)とホーリー(聖)は結びついているのです。希望が聖なる者をつくるとも言えます。
 苦難の中にあって、もし希望を見ることができないと、ここに記されているように、以前のように「欲望」(13節)が私たちを襲って来て、それに囚われてしまうことになってしまいます。希望が無ければ、悪に抵抗する力を持てないからです。14節の「無知であったときの欲望に従わず」の「従わず」ということばは、同じ形にするという語です。ローマ人への手紙12章2節では「調子を合わせるな」と訳されています。欲望と同じ形にされてしまうな、ということです。新約学者W・バークレーがこの箇所を「キリストなしの人生」と「キリストにある人生」というタイトルで講解したことに、なるほどと思いました。私たちを贖い、新しく生まれさせてくださったキリストによって、希望を抱く生活には喜びがあり、平安があり、力があるのです。その恵みにあずかっている者には、聖なる方に倣って生きたいという思いが生まれます。もしかすると気づかずにそう生きているということが起こっているのかもしれません。

希望の保証となる二つの「現れ」

 イエス・キリストへ向かう希望を、ペテロはキリストの二つの「現れ」としてここで述べています。一つは、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵み」(13節、7節も参照)という再臨への待望です。そしてもう一つは十字架と復活を中心とする初臨の「現れ」です。「キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました」(20節)。この二つのキリストの現れを、私たちの希望の根拠とすることは、どんな保証よりも確実なものであると21節が語っています。「あなたがたの信仰と希望は神にかかっています」。聖書が語るこの希望は決して失われることはないのです。