「神のことばの驚異」

ペテロの手紙 第一 1:22ー2:3

礼拝メッセージ 2020.2.9 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,兄弟愛を抱かせる神のことば

神のことばへの従順

 今日の箇所では神のことばについて、いろいろな表現が出て来ます。ペテロはみことばを「真理」と記し、そして「朽ちない種」や、「生ける神のことば」とも書き、ほかにも「主のことば」や、「福音」、「霊の乳」と表しています。それぞれにみことばがどんな働きをし、どういう性質を持ったものなのかを示しています。ペテロは生ける神のみことばである主イエスと出会い、導かれて、みことばの大いなる力と素晴らしさに目が開かれていったのでしょう。みことばの偉大さを明らかにする一方で、ペテロが注意点として示していることがあります。それは22節に「あなたがたは真理に従うことによって」ということばです。真理である神のことばに「従う」と書いています。みことばが語られ、宣言されて、それを聞いていても、自らのこととして積極的に受け入れ、心の中に留めて、従っていく姿勢がなければ、その恵みを経験することはできないのです。ヘブル人への手紙がそのことを繰り返し警告しています。「というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです」(ヘブル4:2)。そして同書は繰り返し、次のフレーズで読者に呼びかけています。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(ヘブル3:7ー8,3:15,4:7)と。

兄弟愛へと導く神のことば

 では、そのみことばが何を語り、どんなことを命じているのでしょうか。この1章22節ー2章3節では、(ギリシア語本文で見ると)二つの命令形のことばがあります。まず一つ目は「愛し合いなさい」です。そしてもう一つは「(みことばである)乳を慕い求めなさい」です。兄弟姉妹として互いに愛し合う交わりを持ち、みことばを一生懸命に学んで従って行くという、この二つのあり方をみことばは私たちに命じています。これはまさに神の民とされた人たちの基本的な信仰の姿勢で、どうしても必要なことです。しかも、ここで明らかにされていることは、この兄弟愛とみことばへの愛は互いに別々のものではなく、この二つはしっかりとつながったものであるということです。みことばである聖書をただ知的興味だけで探求し、知識を得るだけで、周りの人にも教会の交わりにも関心を持たないとすれば、それは真にみことばを理解して受け取れていないことになります。逆に、教会の交わりを楽しんでいても、みことばに対して無関心であったり、学ぶ気持ちがないという場合も、その態度を改める必要があります。ペテロが22節に書いている順序は正しいのです。まず、真理であるみことばを聞きます。次にそのみことばに従います。そうすれば私たちの内なるたましいが清められていきます。その清められたたましいは、兄弟姉妹に対する心からの愛を生じさせます。みことばは知識や情報を与えて終わるものではなく、必ずみことばの真理に私たち自身を向かわせ、純粋で真心からの兄弟愛を抱かせることになります。


2,新しいいのちと成長を与える神のことば

人の有限性と神のことばの永遠性

 23ー25節では、「種」「草」「花」など、植物のイメージで説明されています。24ー25節の引用は、イザヤ書からです。引用元のイザヤ書40章8節「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」は、「新改訳聖書第二版」までは、本の扉裏にこの聖句が記されていました。神のことばの永遠性と人間や社会の有限性が対比されている文章です。24節には「その栄えはみな草の花のようだ」とあります。人間やこの世の栄光や繁栄は一時的なものに過ぎず、永久に持続できるものではないことを歴史が証ししています。「盛者必衰」と「平家物語」の冒頭にも書かれています。一方、神のことばは幾度となく迫害の中で燃やされ(参照;エレミヤ36:21ー23)、地上から消し去ってしまおうと、それを嫌う為政者たちによって攻撃されてきましたが、無くなるどころか世界中に今も宣べ伝えられています。

新しいいのちを与える神のことば

 しかも、神のことばはここでは「朽ちない種」と表現されています。ペテロの念頭にあったのは、主イエスが語られた「種まきのたとえ」(マルコ4:1ー20)であったと思います。種が良い地に落ちると、「芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」のです。種そのものは小さく見えても、そこにはいのちがあるのです。朽ちることのない生ける神のことばは、人を新しく霊的に誕生させるいのちの種です。私がいつも心強く思っているイザヤ書のことばです。「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:10ー11)。

霊の乳を慕い求めよ

 新しいいのちを与える主のことばは、同時に私たちを養い、成長に導いていきます。それゆえ、2章2節でこう命じられています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」。ペテロは、みことばを「乳」、ミルクとして表現しました。2章1節にあるようにみことばの吸収を妨げるものはすべて捨て去るべきです。教会にも乳飲み子がおられますが、かわいい赤ちゃんたちをご覧ください。お腹が空いたら、赤ちゃんは泣いて、ミルクを求めます。与えられるまで、いつまでも泣き続けます。あまり泣いたら周りに迷惑がかかるといけないので、遠慮して泣かずに我慢している赤ちゃんは一人もいないと思います。それほど、一生懸命に、まっすぐに乳を慕い求めているのです。生きるために、成長していくためにひたむきです。神は、ご自身の民とされている私たちが、乳飲み子のような姿勢で、霊の乳であるみことばを慕い求め、それを味わい、吸収して養われ、歩み続けることを強くお求めになっているのです。
 純粋な兄弟愛へと導き、新しいいのちを与え、救われた人々を養い続けていくところの、生ける永遠の神のことばを、どうか食べ続けてください。