「あなたは祭司」

ペテロの手紙 第一 2:4ー10

礼拝メッセージ 2020.2.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


参照聖句

・「それゆえ、神である主はこう言われる。『見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。』」(イザヤ28:16)
・「家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。」(詩篇118:22)
・「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:6)


1,私たちは「生ける石」

生ける石であるキリスト

 ユダヤ地方は石の文化です。建物は普通、石造りです。草や木よりも多く目にするのが石なのです。どこにでも石があり、岩があります。聖書を見ると、ヤコブは石の柱を立てて、主を礼拝しました。モーセはシナイ山で神から石の板を受け取りました。アロンはきれいな石がはめ込まれたエポデという服を身に着けました。ヨシュアはヨルダン川を民が渡った時、十二の石を取って記念としました。その他、火打ち石や、武器、パン菓子を焼く石など、あらゆることで用いられたのが石です。ペテロがここで記した「石」の比喩は、建物に使われる意味でのものです。日本で言うと一番イメージしやすいのが、お城の石垣ではないかと思いました。ペテロがここで語っている建物は神殿です。しかし、4,7節で「石」にたとえられている主は「家を建てる者たちが捨てた石」と書いています。7節のこのことばは詩篇118篇22節の引用です。4節「主は、人には捨てられた」の「捨てられた」という語はギリシア語で、試験の結果、落第とみなされた、という意味です。いわゆる不合格品のレッテルが貼られたということです。これほどすばらしいお方は他におられないにも関わらず、人間は主を「駄目なもの」と判断し、捨て去ったということです。主は、人々に疎まれ、無視され、見捨てられ、のけ者にされ、拒絶されました。そしてその究極の出来事が十字架でした。石ころのように捨てられたお方であるからこそ、主は私たちの弱さや、痛みを知ってくださいます。3節にあるように主は「いつくしみ深い方」です。この「いつくしみ深い」ということばはギリシア語で「クレーストス」と言います。キリストは「クリストス」なので掛詞のようになっています。しかも、ペテロはここで単に「石」とせず、「生ける石」と記しています。死んだ、いのちのない物体ではなく、私たちのために十字架にかかられ死んでよみがえられた方、復活されて今も生きておられる方であることを示しています。イエスというお方に目を留めることもせず、無価値な石ころのように扱うのか、それとも「神に選ばれた、尊い生ける石」として心に迎えるのかが問われています。

生ける石である私たち

 4節の最初に、「主のもとに来なさい」とあります。ここはギリシア語では命令形の形ではなく、5節の「(霊の家に)築き上げられ」につながる文章として記されています。要約して言いますと、「あなたがたは主のもとに来て、霊の家に築き上げられています」ということです。ペテロが示しているのは、こうしなさい、という命令よりも、すでにこうなっていることを自覚して、歩みなさいということでしょう。生ける石であるイエスを信じている私たちは、私たち自身もまた、生ける石とされているのです。そしてその石は、ぽつんと一つだけで存在するのではなく、礎の石で要の石であるイエスの土台の上に石垣のように積み上げられて、互いが組み合わされて、一つの建物となって成長していくと記されています。生ける石の組み合わせですから、建物も生きていて、これからも大きくなっていくのです。ペテロがイエスとともに見ていた神殿も、実はずっと工事が続けられ、成長し続けていました。ヘロデ大王によって修築され始めたのが紀元前19年で、その後、紀元64年に最終的に完成しました。80年以上工事中だったことになります。1882年着工してなお現在も建設中であるガウディのサグラダ・ファミリアはすでに130年以上経過しています。私たちの信仰や人生も、そしてまたこの石橋キリスト教会もなお、新会堂が建ってもそれで終わりではなく、建設が続いていきます。私たち自身が「生ける石」となって、築き上げられていきます。


2,私たちは「祭司の王国」

祭司の務めは礼拝

 二番目に、ここでペテロが明らかにしているたとえは、「祭司」です。祭司には、いくつかの職務がありました。まず、祭儀を執り行うという務めがありました。犠牲のいけにえを神の前に携えて行き、それを屠ったり、焼いたりしました。それから、神の御心を示す神託を取り次ぐ働きもありました。さらに、神殿などの聖所を管理する働き、また民に律法を教える役割も担っていました。ペテロがこの箇所で記した祭司の職務は、おもに二つであると思います。一つは、祭儀を行うという務め、そしてもう一つはみことばを教え、広める働きです。5節後半に「神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります」と書いています。一言で言うと、これは礼拝です。神に礼拝を献げることが、聖なる祭司とされた私たちの務めです。

祭司の務めはみことばの宣教

 そしてもう一つの祭司としての働きは、みことばを教えて、告げ知らせることです。9節を読みましょう。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです」。闇の中から光の中へ、そして10節には、神の民ではなかったのに今は神の民、あわれみを受けたことがなかったのに今はあわれみを受けている、と書いています。祭司として、この務めになくてはならないことが、この「神のあわれみ」を自らのこととして知っている、経験している、あるいは味わっているということです。前回もお話したように、みことばをミルクのようにいただきましょう。そして、主がどんなお方であるのかを味わいましょう。そしてそれを一人でするのではなくて、祭司の王国とされた神の民として、皆で実践していきましょう。