「生ける神を求めて」

詩篇 42:1ー11

礼拝メッセージ 2020.3.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


 新型コロナウィルス感染拡大の影響で、今回、礼拝をこのように制限したかたちで持ちました(表面上は中止です)。約70年になる石橋教会の歩みの中で、初めてのことです。この2週間という時期が、ウィルス感染が爆発的なものとなるかどうかの点で非常に重要であるとの政府の見解と要請を受けて、役員会で検討した結果です。高齢者の方が特に重症化する危険があることや、教会の礼拝を決して感染源にしてはいけないこと、地域の方々への配慮と証し等のことを考えての措置であることをどうかご理解ください。また、主を信じておられる方も、求めておられる方も、この国と世界のために、ぜひお祈りいただきたいと思います。感染がこれ以上拡大することなく、一日も早く終息していくように。また、感染した方々が癒やされ、回復できるように。医療現場で働いておられる多くの方々が守られるように。このことを通して、政治、経済、教育等、さまざまな分野で困難が生じており、また今後について誰もが不安を抱えています。神のあわれみがすべてにわたってありますように、ぜひお祈りください。

 さて、この騒動の中で、教会が公的に礼拝を行わない決断をした時から、私の心に迫って来た聖書のことばが、この詩篇42篇でした。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(1節)と、美しい映像が眼前に広がるような表現で始まるこの詩篇は、人間の内なるたましいに存在する渇きや欲求について気づかせて、私たちを生ける神への信仰へと導く歌となっています。詩篇全体の第二巻の冒頭に置かれたこの詩篇は、続く43篇と元々一つであったようです。誰がこの詩篇の作者であるのかは明らかではありませんが、一説では、作者は神殿から遠く離れた所(ヘルモン山の近く)に追放された祭司かレビ人ではないかと言われています。


1,人間のうちにある霊的な渇き

たましいの渇き

 この詩篇は言います。「私のたましいは、…渇いています」と(2節)。渇きを覚えた鹿が水を求めて谷川へと降りてくるのですが、水が涸れてしまっています。少しでも水がないかと探し求めて、あえいでいます。どうもそんな情景を表しているようです。「谷川の流れ」は乾季になると干え上がってしまった川床のことで、「涸れた谷」(新共同訳)なのです。詩人のたましいも精神的に渇いていて、潤いを求めています。人間は誰でも、この詩篇のように渇いているのではないでしょうか。自分の涙を糧(3節)とするような、言いようのない悲しみや痛みを経験したり、あるいは7節のような、怒涛のように押し寄せてくる災いや苦難に陥っているとき、私たちの心はうなだれ、思い乱れてしまいます(5,11節)。


2,霊的な渇きを充足へと向かわせる道

自分の心を見つめる(5,11節)

 この詩篇が教える、霊的渇きを充足へと向かわせる道について見ましょう。繰り返される5,11節(43:5)で、詩人は「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。」と自らに問いかけています。第一ステップは、自分の心を見つめることです。内なる自分が、どんな状況にあるのかを真っ直ぐに見つめることから、真の祈りが生まれると思います。「心の中で語り 床の上で静まれ」(詩篇4:4、参照;詩篇139:23−24)。

神との関係を見直す

 第二のステップは、神ご自身を慕い求めることです。この詩篇では、神への呼びかけを3つの言い方で表現しています。最初は、「生ける神」(2節)です。見えず、感じられないことがあっても、確かに生きておられる神であると信じて、告白します。次に、「私の神」(6節)です。「私の」と付けることで、神との距離が縮まっている印象を受けます。私を愛し、人生に関わり、働いてくださる神として、見上げるのです。第三に、「わが巌なる神」(9節)と詩人は呼びました。「巌」とは「岩」のことです。私は不安定でよろめくことがあっても、私の神は、何があっても決して揺らぐことのない、堅く確かなお方として、神を認めることです。

主によって結ばれている人々とともに礼拝する(4節)

 最後の点は、彼がエルサレムで神の民として礼拝して祝った日々を思い出すことでした。主にあって結ばれている人たちとともに、神をあがめて礼拝することが、どんなに幸いなことであるのかに気づく必要があります。恵まれている日常を当たり前のこととして勘違いしていないでしょうか。「ありがとう」の語源のとおり、一切の事物は「有り難きこと」なのです。