「私たちの罪を負われたキリスト」

ペテロの手紙 第一 2:18ー25

礼拝メッセージ 2020.3.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,これは神の恵みであると言える生き方(18〜20節)

 ペテロの手紙第一の連続講解に戻って、今日はお話しをしたいと 思います。この手紙の宛先の人々も、ディアスポラ(1:1)と いって、各地に離散していて、ともに集まれない状況にあったと いう意味では、今の私たちの状態に近いものを感じます。しかし、 離れていても、すぐに顔を合わせられなくても、使徒ペテロは彼 らに対して、あなたがたは神に愛されている、聖なる国民、神の 民であるとはっきりと語っています。 18〜20節をじっくりと読んでいて、私はハッとしました。日 本語では意味を取りにくいためか、 「神 (の御前) に喜ばれること」 (19,20節)と訳されていますが、欄外注にありますように、 直訳すると、19節は「これは恵みである」とあり、20節は「こ れは神からの恵みである」と書かれています。では、何が「神の 恵み」であるのかと見ていくと、 「しもべ」についてのことが書い ています。 「しもべ」は家の中に住んで、家のさまざまな用事や子 どもの世話、そして家計のことを管理するような、召使いのこと を示しています。その「しもべ」の主人が、時に意地悪だったり、 気まぐれだったり、あるいは怒りっぽい者である時、いわれのな いことで責められて罰を受けたり、不当な扱いを受けることがあ りました。間違ったことは何もしていないし、真心から主人に仕 えているのに、どうしてこんな苦しい目に遭わなくてはならないのか、といったようなことが起こったときのことをペテロは言っ ています。驚くことに、それは恵みであると、記されています。 どういう意味なのでしょうか。主を信じる者にはこんな理不尽に 思えることにさえ忍耐するよう命じられているのでしょうか。 しかし、よく見ると「従いなさい」とは書いていますが、確かに 「忍耐せよ」とは書いていません。ここで語られていることは、 忍耐すべきかどうか、という点にあるではなく、むしろ、 「これは 神からの恵みである」と受け取れることにこそ、その重点が置か れています。つまり、キリストを信じて歩む人生というのは、私 たちの日常を確かに変える力を持っているというのです。私たち が主を信じても、しもべという仕事や立場は変わらないし、主人 は横暴な人のままであるかもしれません。しかし、日常の中で起 こるいろいろな出来事が、たとえ苦しみ、打ち叩かれるような目 に遭ったとしても、それを乗り越えさせるものが私たちの内側に 注がれているということです。すべては恵みであるとその場を忍 耐して乗り越えさせ、あとで振り返ることができるような生き方 ができるということです。私の信仰はそこまで強くないと思われ るかもしれませんが、その根拠が、そう生きられるものが私たち に与えられているということが続く21〜25節に書かれている のです。


2,キリストを見よ(21〜25節)

あなたがたはキリストの足跡に従うように召されました

 21節からは、聖書を見ていただくとわかるように、おそらく詩 文として書かれたものです。新約聖書の書簡に時々出て来るよう に、当時の讃美歌のようなものの引用なのかもしれません。また、この21節からのキリストを示すことばの数々は、旧約聖書のイ ザヤ書53章から、自由な形で引用されていることも、両書を見 比べていただくとすぐにわかります。ここに記されているのは、 イエス・キリストが地上生涯で示された生きる姿勢です。 「キリス トは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののし られても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、 正しくさばかれる方にお任せになった」 (22〜23節)とあると おりです。なぜ、キリストの生き方が示されたかと言えば、それ が神の民である私たちの模範であるからと書いています(21節) 。
  キリストのように生きることなんて、私には到底無理と思ってし まうのは、私ばかりではないでしょう。でも、ここではそういう 聖者の生き方を真似よ、ということを言いたいのではなく、キリ ストも、あなたがたと同じように、罪の誘惑に会われたし、悪口 や不平を言いたくなったし、他人からののしられたり、苦しめら れたりしました、ということです。それは、私たちが経験してい る苦しみを、キリストがすべてご存知であるということなのです。 あなたが人生の中で、辛くて悲しい思いをしていることは、あな ただけしか経験していない特殊なことであるはずですが、ペテロ によると、それはキリストが地上生涯の中で苦しみを受けられた ことを、あなたが追体験していることになるというのです。さら に進めて言えば、苦しみの経験こそが、私たちをキリストに近づ けることになり、もしも何も苦しむことがなければ、キリストを 味わえないと言っても良いでしょう。だから、ペテロは、不当な 苦しみを受けているしもべたちに、それは神の恵みであると断言 できたのです。

あなたがたはキリストの十字架によって癒やされました

 24節と25節には、私たちが持つべき信仰の確信が記されてい ます。24節では、キリストの受難、十字架を見上げるように教 えています。それは私たちが罪を離れ、罪に死んで、義のために 生きていくためです。この24節の文章は、詳しく見ると、実際 にキリストが鞭で打たれ、十字架にかかられたことをイメージす るように読者を導いています。たとえば、ここでペテロは「十字 架」ということばをあえて使わないで、 「木」と書きました(24 節の脚注をご覧ください) 。刑罰のための道具の材木に、キリスト は釘で打たれて吊るされたのです。さらに、 「打ち傷」ということ ばがあります。これは十字架刑の前に、石や獣の骨を所々に結び つけた鞭で、その体を幾度も打ったのですが、その鞭で打ったこ とによって体についた傷のことを意味する単語が使われています。 何とも生々しい表現です。 罪を何も犯したことがない、キリストが受けられたこの酷い苦し みを思いなさいと聖書は語ります。 なぜなら、そのことによって、 私たちは罪赦されたばかりか、身も心も癒やされたからです。2 5節にあるように、どう生きてよいのかわからず、さまよい続け ていた私たちでしたが、今や、たましいの牧者であり、監督者で あるお方のもとに帰ることができたのです。すべては恵みです。