「いのちの恵みをともに受け継ぐ者」

ペテロの手紙 第一 3:1ー7

礼拝メッセージ 2020.3.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,従う生き方がもたらす力を知る(1節)

 この聖書箇所は、エペソ人への手紙やコロサイ人への手紙にもある「家庭訓」であり、家庭においてキリスト者がどうあるべきかが記されています。直接には夫婦関係が取り上げられています。この前のところでは、しもべと主人の関係のこと(2:18〜25)が説かれていました。ただ、エペソ人への手紙5章21〜33節との違いは、夫についての教えがとても少ないことです。また続く箇所に親子関係についての勧めが記されていません。おそらく、ペテロがここで妻に対する勧めのことばをたくさん記したのは、社会でも家庭でも弱い立場に置かれていた人々に対する愛と配慮から出たことであると思います。それはしもべと主人の関係についての教え(2:18〜20)でも、しもべに対することばだけが書かれていることからもわかります。そういう見方で考えると、ここで説かれていることは、確かに直接的には妻や夫に対する内容になっていますが、その対象に限定されるものではないとも言えます。これから見ていく中でわかるように、社会に生きているすべてのキリスト者に共通する生き方の原則が示されていることが読み取れるからです。

  しもべに対する勧めも、妻に対する勧めも、全く同じ命令が語られています。それは、「従いなさい」ということです。そして従うことの中心は、1節と7節冒頭の「同じように」が示しているように、2章21〜25節のキリストを模範として、この方をしっかりと見つめ、その生き方にならうということでした。しかし、本当に従うことだけで良いのだろうか、福音を語らなくては宣教が進まないのではないか、と心配してしまいます。しかしペテロはそのようなことはないと言います。「異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。」(2:12)と。3章を見ても、従うことで、配偶者に対して大きなインパクトを与えられることが書かれています。1節後半「たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです」。この「神のものとされる」というのは、直訳すると「彼らは獲得されるであろう」(未来形)となります。彼ら「夫たち」の何が獲得されていくのかは、彼らのたましいが神のものとされていく、その人たちの人生が変えられていくということです。


2,神の御前に価値あることかを問う(1〜4節)

 それでは、「従う」とは何をもってすれば、どういう意識をもってそうすれば良いのかを考えてみたいと思います。たとえば夫婦関係という、ありのままの自分が出てしまう関係性の中で、どんなことを思って、「従う」あるいは神に喜ばれる生き方を実践すれば良いのかを見ていきましょう。第一のヒントは、4節のことばです。それは「…神の御前で価値あるものです」という表現にあります。1〜4節を一塊の文章として読むと、信仰者の輝きや魅力は、外見上の服装や髪型では示すことができないと書いています。もちろん、3節はおしゃれをすることを禁じたり、身だしなみを整えることを否定しているのではありません。問題はどのようにして信じて生きることの美を示すかということです。それは4節の「心の中の隠れた人」と表現された、内なる人格をもって表すことであると書いています。その現れとしての行動が1節の従順なふるまいとなるのです。
 そのふるまいを自然にもたらすことになるような私たちの意識とは何でしょうか。第一に、それが神の御前で真に価値のあることなのかという問いを自らに対して持つことです。この世にあって人間が持つ価値基準と、神の御前においての価値の一番の違いは何かと考えると、永続性を持つものであるのかということでしょう(参照;1:7、23)。永遠に生きておられ、私たちにも永遠のいのちを与えられた神は、その時代の空気に翻弄される方ではありません。御前に価値があるかないかは、短い期間の中で計られる良し悪しでは、正しく判断できないことです。時々、こう思うことがあるかもしれません。毎日同じことの繰り返しで、こんなことにいったい何の意味があるのだろうかと。しかし、ゆっくりと考え、思い巡らしていく中で、それでもこれは神の御前で価値があると信じられるかどうかを自らに問うてみましょう。簡単に答えが出ないことも多いかもしれません。でも神の御前で祈り、繰り返し考え、信じて行動するのです。


3,神に希望を置いた生き方であるかを問う(5〜6節)

 第二に、信仰者として生きるために持つべき意識とは、神に希望を置いて歩むことです。5〜6節でアブラハムの妻サラのことを例にして、ペテロは語っています。サラだけでなく、かつて信仰をもって歩んだ女性たちが、どのようにして夫に従い、その従順な姿勢で仕えたのか、それは5節に「神に望みを置いた…」という表現に示されています。神に希望を置いて生きているから、私たちは何が起こっても、とにかく生きていけるのです。さまざまな苦難を経験し、たとえ落ち込んでしまったとしても、倒れたままで終わることなく、また立ち上がって歩み出せる、それが希望を握っている者の力です。この書が度々記している、キリストの再臨と終わりの希望を持つことにそれは繋がっています(1:5,7,13、2:12,4:7,13)。


4,ともに生きていくという自覚を問う(7節)

 第三に、ともに生きていくという自覚を持つことです。この人とともに生きていくという覚悟です。夫に対して述べられている7節前半を見ましょう。「同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい」。「ともに暮らす」ために、どうしても必要なことが、相手が「弱い器であること」の理解です。ここでは、当時の社会においての一般的なあり方から、夫に対する注意と命令になっていますが、夫婦関係においても、また他の人間関係においても、忘れてはならないことは、人は何かの点において必ず弱さを持っている存在であることです。そもそも人間は皆、弱い存在です。彼女あるいは彼が弱い器であることを知って、その上で、ともに生きていくことになります。当然そこには優しさや寛容さが求められるでしょう。私たちは一人ぼっちで神の御前に生きているのではなく、いのちの恵みをともに受けているのであり、朽ちず、汚れず、消え行くことのない資産(1:4)を共同で相続する者として、皆と一緒に生きていくのです。