「祝福を受け継ぐ者」

ペテロの手紙 第一 3:8ー12

礼拝メッセージ 2020.3.22 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,祝福を受け継ぐ者として呼ばれた(8〜9節)

良き人生とは

 10節に「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は…」と書いています。「幸せな日々」とは、英語ではグッド・デイズと訳されています。言い換えれば、良き人生(グッド・ライフ)と言って良いでしょう。何が良き人生と呼べるのか、現代においても、いろいろな考え方があると思います。現況は、ウィルス感染の広がりで、グッド・ライフどころか、悲惨で苦難の日々を多くの人たちが送っていますし、これからのことを思うと、不安と怖れの中で、明日の日をどう迎えられるかと心配を重ねています。それでも、この聖書箇所のことばは私たちに力強く語りかけています。ちょうど、この書の宛先の人々が厳しい迫害や苦難の中で、これらの神のことばを聞いたのと同じように。神は私たちに対して、はっきりとこう宣言されているのです。「あなたがたは祝福を受け継ぐために召された」のであると。
 「祝福」とは、神が私たちに与えられる幸せのことです。人間の努力やわざによって獲得されるものではありません。神がお与えくださる恩寵です。ですから、この8〜12節を見ると、この祝福をあなたの努力でもぎ取れ、とはどこにも命じられていないのです。あくまで祝福は神よりいただく相続財産のようなものであり、神から賜るものです。そしてそれは苦難の中にある者たちに対して、神が必ず与えてくださると約束されています。

祝福の人生の特徴

 8節をみると、祝福を受け継ぐ者が、どのように生活するのかが、5つのあり方で述べられています。「みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい」と書いています。この5つの特徴は、適当に並べられた徳性のリストではありません。5本の手の指のように同じ神の恵みという源から広がり、一緒に動き働くように置かれたものです。
 まず「一つ思いになる」ことと「同情し合う」ことは、英訳にあるように、同じマインドを持って互いに調和して生きることです。各々が異なっていても大丈夫です。いやむしろ違っていることが必要です。しかし違いによってバラバラになってしまうのではなく、主にあって一つとなって、互いの違いが組み合わされて調和し、良きハーモニーを奏でるようになることです。
 次の「兄弟愛」はペテロの手紙が強調していることです。1章22節「あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい」と語られていました。2章17節「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ…」と書いています。私たちは主にあって結ばれた神の子どもで、神の家族です。「心の優しい人」とは原語では「良い内臓」です。昔の人々はからだの中に心や感情の座があると考えていました。健全、健康な心を持つことから、憐れみの情が出て来るということでしょう。
 「謙虚」も、これまでの美徳と同じで、すべてキリストの中に見られることでした。8節の最初に「最後に言います」と書いているのは、これまで書いてきたことをまとめ、ひとまずの結びとしているのです。2章21〜25節で、ペテロがキリスト者はキリストになれ、とその模範を明らかに示しました。これらの美徳もキリストのうちにあり、すべてはキリストに倣えということです。

悪の存在する世界で

 しかし、9節が語っていることは、私たちが世にあって経験するのは、そのように善良に神の御前に生きようとしても、悪に誘惑され、誤解され、侮辱を受けることもあるということです。パウロがローマ人への手紙12章で述べた勧めと、この8〜9節は類似しています。「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい」(ローマ12:14)「悪に悪を返さず…」(同12:17)、「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(同12:21)。祝福の相続者である私たちは、祝福を周りの人々に分かち合うためにも召されています。祝福というと、アブラハムへの神の約束を思い出します。「あなたは祝福となりなさい。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:2〜3)。この祝福の命令と約束は、アブラハムだけに命じられたものではないと思います。しかも、それがキリストによって成就したということで、それをメシア預言の一言で片付けられるものでもないと思います。「あなたによって祝福される」は、ヘブライ語ではニファル形で表され、受け身で訳すこともできるのですが、それ以外に、再帰形で「自らを祝福する」とも、あるいは相互的な意味で「互いに祝福し合う」とも訳せます。最近は、私はこの相互的な意味ではないかと思っています。互いに祝福し合うようになって、世に祝福が広がり続けるのです。


2,平和を追求する者として呼ばれた(10〜12節)

危機の中でのことば

 さて、10節からのみことばは、詩篇34篇12〜16節の引用であることがわかります。完全にそのままの引用ではありませんが、だいたい同じ内容です。詩篇34篇は表題として「ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに」と書かれています。このト書きの詳細はサムエル記第一21章の前後を読んでいただくとわかりますが、ダビデはサウルに命を狙われていて、絶えず恐れと不安の中に置かれていました。そんなことを経験していたダビデのことばであると思うと、これらのことばは単なる理想や希望を記したことばでないことがわかります。これはまさしく、危機的状況の中での決意と信仰による励ましの宣言でした。

平和を追い求めて

 ダビデ、そしてペテロの示していることは、平和を希求する生き方です。それは安心安全を求めるというよりも、神の御心としての平和、シャロームです。ですから、世界の平和を求める以前に、自分が神のシャロームに生きることを語るのです。ことばにおいて、行動において、悪や欺きを退け、義を求め、善なる行いに努めるのです。この平和ということでも先ほどの祝福と同じように、私たち人間の努力によって完全な平和をこの世界にもたらすことはできないのです。それは神が与える平和であり、その平和に召された私たちが、神の平和を正しいくちびるで、正しい行いを通して、世にあって分かち合っていくということなのです。そのように生きることのできる土台は、主が私たちを、そしてこの世界を、じっと見ておられるということ、ちゃんと聞いてくださっているという確信です(12節)。