「情熱と誇りをもって」

使徒の働き 17:22ー34

礼拝メッセージ 2020.4.26 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1,伝道者パウロの偶像への憤りと主への熱心さ(16〜21節)

 第二次伝道旅行中、マケドニア地方で伝道していたパウロ達ですが、伝道に反対する者たちによって騒動が起こり、パウロはアテネに案内されることになります。今日の聖書箇所は、パウロがマケドニア地方にまだ残っているパウロの仲間(テモテとシラス)の到着を待っていた時のことです。
  パウロが急遽滞在することとなった都市アテネには、偶像があふれていました。そして、パウロはそのことに憤りを覚えます。ここにパウロの主への熱心さがうかがえます。そこでパウロは、会堂や広場でアテネの人々と議論を始めました。アテネは芸術や学問、哲学などに長けた文化都市です。アテネの人々、またそこに滞在していた人々は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていました(21節)。
  パウロの話を聞いた人々は、彼をアレオパゴス(評議会)に連れて行きました。「私たちには耳慣れないことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなことなのか、知りたいのです(19、20節)」。パウロが連れて行かれたアレオパゴスとは、アテネにおいて道徳と宗教に関する特別な裁判権を持っていた評議会を意味します。そこでは殺人事件を扱ったり、公衆道徳の監督をしたりしていました。アテネといえば世界の中で最も学問的な都市のひとつで、選び抜かれた裁判官が30人ほどいたと言われています。そのような状況の中でパウロは語らなければならないことになりました。しかしこの事態はパウロの行動力が引き起こした絶好の機会でもあります。パウロの神への熱心さ、情熱が、このような大きな事態をもたらしました。


2,福音を恥じることなく、誇りをもって(22〜34節)

 パウロは最初に、「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものを見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう(22、23節)」と切り出しました。パウロはアテネの人々のあり方を完全に否定することはせず、またアテネにあふれていた偶像をよく観察していたのです。
 パウロがアレパゴスで語った内容は第一に、神は造られた方ではなく、造り主であるということ。第二に、神は民族、時代、国境、すべてのことをお定めになり、導いておられるお方だということ。第三には、神に造られた私たち人間は、神を求める存在であり、神はこの世界で生きておられるお方なので人は神を見い出すことができるということ。そして再び、神を人間が造ったものと同じように考えるべきではないことをパウロは述べました。
 ここで注目したいのは、パウロはユダヤ人に語るようには、アテネの人々には語らなかったということです。パウロは旧約聖書のイスラエルの歴史に触れていません。アテネの人々が慣れ親しんでいる神々になぞらえて、パウロが信じている本当の神について語りました。しかも、28、29節では、「『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちにある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません」と語ります。パウロは異教の神々に関するエピメニデスやアラトスという詩人たちの発言を引用しているのです。
 そして最後に、パウロはキリストの死と復活について言及します。死者の復活は、アテネの人々にとっては的外れなことでした。真剣に語るパウロをある人たちは見下し、あざ笑いました。またある人たちは、「いずれまた聞くことにしよう」と、判断を先延ばしにしました。
  多くの人々に拒絶されたパウロでしたが、彼が書いた手紙の至るところには彼の生き方が表れています。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです(ピリピ1:20)」。
  イエスの復活は、たしかに現代の人々には馴染みにくく、受け入れがたいものですが、それは現代の話だけではありません。昔からそうでした。パウロは、アテネの人々に合わせて工夫を凝らして語りましたが、それと同時に福音を曲げることなく、恥じることなく、堂々と情熱をもって語りました。


3,恐れや恥より、情熱と誇りを

 私たちは、パウロのこの伝道が成功であったか失敗であったかということではなく、パウロの生き方に目を留めたいと思います。キリストを宣べ伝えることで人々に嘲笑われたり見下されたりすることがあることは、パウロにとっても想定内だったはずです。しかし、キリストの死とよみがえりとはパウロにとって恥であるどころか、キリストこそが彼の誇りであったと言えます。
 パウロの伝道者としての働きを支えていたのはもちろん彼と共におられた主ですが、パウロの神への情熱と誇りが彼の伝道旅行を扇動していました。パウロが持っていたのは人への恐れや恥ではなく、神への情熱と誇りだったのです。
 私たちはどうでしょうか。人への恐れや恥、神への情熱と誇り、どちらが心の内を大きく占めているでしょうか。私たちにはいつも、恐れと恥がつきまとっているように思います。
 また、私たちは主がこの世界の主としてあがめられないことに、慣れ過ぎてしまってはいないでしょうか。パウロは「町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた(16節)」とあります。パウロは誰よりも愛すべきお方のことに関して、無関心ではいられませんでした。

 多くの情報にあふれた社会のなかで、私たちは自分だけの個人的な主としてではなく、この世界の主について確信を得なければなりません。そして、その確信のうえにある主への情熱と誇りのゆえに福音を証しする者でありたいと願います。
 また私たちは、私たちを変えてくださり、整えてくださるのはほかの誰でもない主であるということを覚えたいと思います。それは主が私たちをデザインされたからです。日々、私たちを支配しようとする人への恐れや恥が、主への情熱と誇りに変えられていくよう、私たちは教会として共に励まし合いながら主に祈り求めていきたいものです。