「バプテスマのヨハネ、教えを宣べる」

マルコの福音書 1:1ー8

礼拝メッセージ 2020.6.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,福音とは何か

 ギリシア語文の単語の並び順で書くと1節は「はじめ/福音の/イエス・キリストの…」となります。最初に書かれている単語の「はじめ」とは、あることが始まりました、開始されました、という意味を含んでいると言われます。この聖書箇所を読んで黙想していると、確かに、鐘の音が大きく鳴り響いているような感覚、あるいはファンファーレが大きく奏でられているようなイメージを私は持ちました。ニュー・イングリッシュ・バイブルは「神の子、イエス・キリストの福音、ここに始まる」(NEB)と訳しました。新約学者N.T.ライトは、この箇所の注解で、ベッドの中で眠り、まだ夢の中にいる私たちに、突然、「時間ですよ、起きてください」と言って誰かが呼びかけてきて、そしてさらに頭の上から水をかけてくるような、そんな内容であると言っています。そのように読者に、ハッとさせるような驚きを抱かせるプロローグになっています。
 では、そうした驚きと期待感を持たせるものは何であるのかと言うと、それをマルコは「福音」と呼んでいます。「福音」は、幸福の音信、すなわち良い知らせ、朗報、グッドニュースという意味です。ちなみに、新約聖書の最初の四つの書がすべて「福音書」と呼ばれるようになったのは、この書の冒頭にある「福音」ということばからそうなったようです。この書が書かれた時代、「福音」と言えば、自分の国が他国との戦争で完全に勝利したという知らせのことでした。勝利の速報が、その国民に告げ知らされると、皆は歓声の声をあげて喜びました。そのことによる恩恵や祝福を予感でき、これまでのように敵に脅かされて生きる必要がもうなくなる、安心して平和に暮らしていけるとの思いを持つことができたからでした。しかし知らせを聞いた時点では、それが確かなことであるのはわかっても、まだそれにともなう実質的な恩恵を享受できているわけではありません。しかしその知らせを聞いた人々の内側には変化が起こりました。明らかにこれまでとは違う新しい生活が始まる予感と確信が生まれ、自然と全身に力が湧いてくるのです。それが「福音」ということばの持つイメージです。


2,福音の始まりを告げる人々

旧約聖書の預言者たち

 マルコは、続く2〜3節で、その福音の始まりを告げた人々のことばを紹介します。まず、旧約聖書から引用がされています。最初のものは、脚注にあるように出エジプト記23章20節、マラキ書3章1節です。あとのほうは、イザヤ書40章3節で、どれも自由な引用のかたちで書かれています。マルコは、この素晴らしい良き訪れは、急に何の脈絡もなく、誰かの一時的な思いつきで出て来たような、単なる理想あるいは空想のようなものではないことを明らかにしています。これから述べる福音は、旧約聖書に記された、神の民イスラエルに古くから約束され、何千年という歴史の流れの中で、ある場合は平和な中で、あるいは戦争や危機的状況下で出現した数々の預言者たちによって、それぞれの命をかけて語り伝えられた預言のことばで証しされて来たものであるということです。モーセ、マラキ、イザヤを通して語られているそれらの預言は、その福音をもたらすメシアの到来には、その先駆けとして、ある者を主の使者として遣わすことが述べられていたのでした。その先駆けの人、メシアが来ることの道備えを任された人こそ、ここに登場するバプテスマのヨハネでした。

バプテスマのヨハネ

 4〜8節には、福音の始まりを告げた人として、バプテスマのヨハネが行っていた働きと、宣教のことばが記されています。彼の働きは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」(4節)を人々に授けることでした。特に注意を向けたいことばは、「悔い改め」という語です。聖書が示す「悔い改め」とは、悪い行いをしたことを後悔して悲しむということが第一の意味ではありません。むしろ、この「悔い改め」ということばは、「立ち帰ること」を表し、生き方の方向を変えることを意味しています。これまでとは違う新しい生き方に人々が進んで行くように助けることが、彼の施していたバプテスマ(洗礼)の目的でした。「罪の赦し」という表現があるように、これは神であるお方、創造主である神との間にある隔てを取り除いていただき、神に赦され和解して、神との関係を築いて生きるということです。神を見上げ、信頼し、その御心に沿って生活し、神が開始された新しい支配を知って、神に仕えて生きるという、これまでと違う生き方を始めること、人生の方向転換をはかるものです。そうした新しい歩みに入る備えとして、ヨハネは水でバプテスマを授けていたのです。
 そして、彼が宣べ伝えていたことばとは、福音の中心であるキリスト(メシア)の到来でした。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」(7〜8節)。自分とは全く異なる次元の人、自分とそのお方とを比較することもできない、圧倒的に偉大な方として、ヨハネはその方を見ています。自分が宣べ伝えているのは、そういうお方であり、私はその方の道を備える使者であり、荒野の声にすぎない者であると語っています。決定的なことは、自分が授けているバプテスマは水によるものだが、その方が授けるバプテスマは聖霊によるものであると語りました。言い換えると、私の洗礼は水という手段で行っていて、人の心そのものを変える力はないが、そのお方は、あなたがたを聖霊の中に浸して、新しく造り変えて、新たに生まれさせることができるのだと宣言したのです。

福音の中心はイエス・キリスト

 冒頭1節に戻ると、この「福音のはじめ」の「福音」とは、「イエス・キリストの福音」であると書いています。「イエス・キリスト」とは、名前の表記ではなく、「イエスがキリスト(メシア)である」という信仰告白のことばです。旧約聖書の預言者たちが語り、先駆けとしてのヨハネが語って来たメシアの到来は、ここに記されていく、イエスというお方が来られたことで預言が成就しました。神の大いなる支配による平和、新しい世界へと生まれ変わらせる神のご介入が、今始まりました、とマルコは語るのです。
 今は何もかも目に見えないコロナウイルスに支配されているように感じるかもしれませんが、コロナというのは元々の意味はクラウン(王冠)、冠のことです。真に王冠をかぶり支配されている方は、マルコの福音書が語るイエスというお方です。このお方こそ、キリスト(メシア)であり、福音の中心なのです。