「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」

マルコの福音書 1:21-28

礼拝メッセージ 2020.7.12 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.イエスの権威を見たカペナウムの人々

 カペナウムという町はガリラヤ地方にある町のひとつで、ガリラヤ湖の北西部に位置しています。イエスが教えられた「会堂」とは、現在で言う教会堂のようなところです。起源は明確ではありませんが、旧約時代にイスラエル(南ユダ)がバビロン帝国に捕囚された際に、神殿のない外国の地で故国の神を思い、ともに集い、礼拝するために各地に建てられたと言われています。イエスはカペナウムでさっそく会堂に入り、「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられた」と書かれています。イエスは単なる解説者としてではなく、ご自身が権威ある者として、人々に教えられました。イエスの語りぶりは律法学者たちとは異なる様子であったため、人々は驚きました。
 そこへさらに、非常に驚かされる出来事が起こります。会堂に汚れた霊につかれた人(いわゆる悪霊につかれた人)がいたのですが、イエスは「黙れ。この人から出て行け」ということばによって、汚れた霊を追い出したのです。
 マルコの福音書はおそらく、イエスとは前代未聞の権威あるお方であり、「権威を持った人がここにいるのだ」ということを語りたかったのだと思います。マルコの福音書は、イエスの道備えをするバプテスマのヨハネに関する記述から始まり、イエスがバプテスマをお受けになる場面、そして荒野でサタンの試みを受けられる場面、ガリラヤ地方で宣教を開始されて4 人の漁師を弟子にされる場面と、これらの出来事をこのような順序で簡潔に書いています。そしてこれらはいずれにおいてもイエスが権威ある者であることを表しています。本日の聖書箇所も同様に、イエスの権威を示している出来事のひとつとして描かれているようです。

 マルコの福音書はイエスが神にあって権威あるお方であるということを確かにしているということに心を留めつつも、ここでは、イエスに対する人々の反応にも注目したいと思います。
 人々は、イエスの佇まいや目の前で行われた悪霊の追い出しに大きな衝撃を受けたようです。衝撃的な出来事や、非日常・常識外れの奇蹟は、人の心を大きく動かします。自分の目でイエスがなさったことを見た人は、イエス様の権威とその力を信じたはずです。また人づてに聞いた人たちも多くの証言によってそれらを信じずにはいられなかったでしょう。
 しかし衝撃的なイエスの力を直接自分の目で見たということと、信仰の確立や成長というものは、必ずしも直結してはいないようです。カペナウムの人たちはイエスの権威ある教えを見聞きしましたが、この町の人々が神に立ち返ったことの記述は聖書に見られません。それどころかイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行ったにもかかわらず、悔い改めない人々を見て、「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ」と嘆いておられます(マタイ11:23-24,ルカ10:15)。イエスの権威を自分の目で確認した人々が、それよって神に立ち返り、神を愛する心が養われたというわけではないのです。
 言い換えるならば、神への信仰が奇蹟のような目を見張る出来事や経験から生じたにすぎないものであるとするならば、そのような信仰は適切であると言い難いのです。イエスのなさった悪霊を追い出すという権威ある教えは、人々の心を大きく動かすものではありましたが、そのことが直接的に人々の神への信仰を確立させたのではありませんでした。


2.汚れた霊に取りつかれた男

 汚れた霊にとりつかれた人は、なぜ会堂にいたのでしょうか。別の箇所でも汚れた霊に取りつかれた人が登場する場面がありますが、その人の場合は精神的な乱れが激しく、自分の体を傷つける程であり、その凶暴さのゆえに町外れの墓場につながれてしまうほどでした。しかし、ここに登場する「汚れた霊に取りつかれた人」には、そのような乱暴さは見られないようです。もしかしたら彼にとって、会堂という場所は居心地の良いところであったのかもしれません。宗教的な人は必ずしも信仰的であるとは限らないのです。教会で「霊的」ということばを用いる時、「信仰的」という意味合いが含まれるようなポジテイブなものとして使うことが多いように思いますが、「どのように霊的であるのか」に注意しなくてはなりません。占いや霊媒、場合によっては新興宗教なども、「霊的なもの」に含まれるからです。「悪霊がなぜ会堂にいたのか」という疑問には、彼らにとってそこは居心地の良い場所であった可能性があると言えます。
 
 私たちの信仰はどうでしょうか。自分がカペナウムで暮らす町のひとりであったとしたら、イエスとはいったいだれであると認識したでしょうか。奇蹟的な体験によって、イエスに出会い、救われ、神に立ち返るということもあるでしょう。また、キリスト教の教えや教会という場所が心地よく思われて、次第に信仰に導かれるということもあるでしょう。そこには、イエスの恵み豊かな招きがあることを覚えます。
 しかし私たちの信仰が単に「奇蹟を体験したから」であるとか、「自分って心地よいから」であるにすぎないとするならば、それはイエスに出会いながらも、イエスのことを最後まで理解しなかったカペナウムの人々と重なるところがあるように思います。私たちの信仰は、きっかけはどうであれ、自己中心的なものや依存的なもの、洗脳的なものではなく、自立したものであるべきなのです。