「多くの病人を癒やす」

マルコの福音書 1:29ー34

礼拝メッセージ 2020.7.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは家の主

イエスは家の中に入って行かれた

 21節から見ていくと、会堂の中(21〜28節)、家の中(29〜31節)、カペナウムの町の中(32〜34節)、それぞれの場所において、日々を生きる人々のうちには、実は、いろんな病気があり、多くの悪霊がおり、痛み苦しんでいたことがわかります。彼らには、どうしても癒やしと解放が必要でした。神の国の福音を一日も早く届けなくてはならない人々でした。マルコの福音書には「そしてすぐに」ということばがよく出てきますが、この傷んだ世界へ急いで向かわなくてはならないという著者のそうした緊迫した思いが感じられます。イエスは会堂におられただけでなく、家の中にも入って行かれました。もしかすると、シモンとアンデレ、そして家の人たちも、こう言ったのではないでしょうか。先生、せっかく来ていただきましたが、あいにく、シモンの姑が熱を出して寝込んでいます。そんな訳で何のおもてなしもできませんから、また別の機会にお越しいただければと思います。そう言って家の者たちは玄関で謝って、別の家に行くようにお願いしたのではないでしょうか。ところが、イエスはそれを聞いて、問題ありません、とばかりに、家の中へ入って行かれ、感染することも恐れずに、熱で苦しむペテロの姑のところへ行かれました。まるでその家の主(あるじ)であるかのように、彼らの家の中で自由に振る舞われました。イエスは教会の主であると同時に、どの方の家の中にも入って行かれる、家庭の主であられるのです。人々が安息日の礼拝を終え、会堂を後にして家に帰っても、そこにもイエスはおられるのです。そしてその家の中にある悩み、人生の重荷、苦しみ、患いを知って、それを担うために入って行かれるのです。

イエスは病人に近寄り、手を取り、起こされた

 イエスは寝床で苦しむ姑のところへ近寄られました。イエスの取られた行動は、近寄り、手を取り、そして起こされたのでした。この「手を取って」ということは、イエスのほうから、その御手を差し伸ばされたということです。ある説教者は、この手は和解を与えるものだと書いていました。主であられるお方から近づいて、神との和解の道を備え、愛と癒やしをもたらす御手を差し伸ばしていかれ、その手に支えられて、彼女は起き上がったのです。この「起きる」という語が、イエスご自身を主語に受け身形とする場合には、「よみがえられる」と訳されます。姑がどれだけ重篤な状態であったのかはわかりません。しかし、イエスによって、彼女のからだは完全に癒やされただけではなく、その魂も神の前に回復せられたのでした。そのことを示すことばが、31節の「彼女は人々をもてなした」に現れています。「もてなした」とは、「仕えた」あるいは「奉仕した」という意味です。この女性はイエスに癒やされ、救われたことに、会堂にいた人々のように驚きを表すことも、悪霊たちのように「あなたは神の聖者」とも告白しませんでしたが、神と人々に仕えるというその生き方によって、イエスに従う者の正しい応答を示しました。イエスを主とし、従うとは、イエスに仕える者になるということなのです。


2,イエスは町の主

イエスは人々を癒やし、悪霊を追い出して沈黙させた

 32節からのところは、場所に変化はないのですが、時間の経過が記されています。「夕方になり日が沈むと」(32節)。安息日がその日没とともに終わりました。働いてはならないとされている安息日には、何もできませんでした。シモンの家でイエスが姑を癒やしたことは、後になって同様のことをされたイエスが、安息日の戒めを破ったとの告発を反対者たちから受けることになっていきます。イエスと弟子たちは安息日が終わり、日没を迎えてもシモンとアンデレの家に留まっていました。しかし、この家はこれまでのあり方ではなくなっていました。ここには、あのイエスがおられるのです。主を宿す家となりました。「こうして町中の人が戸口に集まって来た」のです(33節)。安息日ゆえに、病人等を運んだり、連れて行くことを止めていた人々は、それが終わるやいなや、すぐさまイエスのもとへ押し寄せてきたのでした。イエスを迎え入れたこの家のドアは、これからはイエスに出会うためのドア、救いの道へと続く戸口に変わりました。

イエスとともに私たちも働く

 今日の箇所で、イエスがなさっていることを改めて見ると、おもに三つのことが書かれています。一つは、イエスは近づき、手を取って起こされたということです。二つ目に、イエスは様々な病の人々を癒やされたということです。三つ目に、イエスは悪霊たちを追い出し、物を言うことを許されなかったということです。
 イエスは、会堂でも、家でも、町でもお働きをなさっています。また、安息日であっても御業をなされ、安息日が終わっても、朝でも夜でも働いておられます。安息日論争の中でイエスは言われました。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」(ヨハネ5:17)。
このようにイエスは私たちの間で今も働いてくださっていますが、そのことを知っている私たちの側は、それでは何をすべきなのでしょうか。これらの箇所から、弟子たちあるいは人々のとった行動が書かれており、そのヒントを与えています。第一に、イエスに私たちの課題や重荷をお伝えすることです。30節に「人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた」と書いています。これは今日のこととして考えるならば、祈りです。主に私たちの苦しみを告げて、一切の重荷を委ねるのです。第二に、様々な苦しみを持っている周りの人々をイエスのもとにお連れするのです。32節「人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た」のでした。第三に、癒やされたペテロの姑が示してくれたように、私たちも主と人々に仕えるのです。これら祈り、伝道、奉仕をもって、主に応答していくのです。
 今日の箇所は、会堂の外で起こっている主の働きでした。現在、コロナ感染の影響で教会はこれまでのあり方で礼拝や伝道や奉仕を自由に行うことができない状態です。でも、教会堂で大勢集まって何かをすることができなくても、イエスは教会の外でも働いてくださっていることをこの箇所は教えてくれます。私たちの家、職場、地域において、イエスはそこにおられて、御業を進めていかれます。私たちは、主によって教会から遣わされて、祈り、宣教、奉仕を、家で、町で、主イエスとともにさせていただくのです。